スポンサーリンク 爺ちゃんが死んだ 2017/9/9 2017/08/13~ オーストリア④, ■彼女と世界二周目■ 2017年8月22日(火曜日)【オーストリア】 リーツ ~ インスブルック岡山の爺ちゃんが死んだ。いつもなら朝ご飯の時間に自分で起きてくるはずなのに、起きてこないので婆ちゃんが部屋に起こしにいくとベッドから落ちた状態で冷たくなっていたらしい。それを見つけた婆ちゃんは足が震えたと言っていた。岡山の川上町っていう山の中の、そこからさらにものすごく山奥に入っていったところに住んでいる爺ちゃん婆ちゃん。山の中なのでこれといった娯楽もなく、古い家の中でテレビを見て笑っていたささやかな暮らし。ずーっと2人で、仲良く何十年も暮らしていたのに、突然爺ちゃんが死んでしまった。俺も子供のころから里帰りで何度も遊びに行き、日本一周を始めてからもよく1人で顔を見に行っていた。たまにやってくる俺の長い髪の毛や伸びたヒゲを見ては、近所の人に噂されるから綺麗にしてからこんばぁいけん、って言っていた爺ちゃん。物静かで、口数も少なく、俺が旅の話をすると、はっはっはと笑っていた。あの爺ちゃんがもういない。婆ちゃんきっと寂しいだろうな。日を追うにつれてそれは大きくなるはず。何十年も一緒に暮らしていた人と死別する気持ちというのは、一体どんなものなんだろう。毎日起きたら目の前にいて、毎日話をし、毎日ご飯を一緒に食べ、毎日毎日ずっとそばにいたのに。それを思うと、今のこの日々がとても大切に思えた。カンちゃんという最愛の人を見つけ、そして奇跡的に結婚することができた。できることならこれから一生一緒にいたいと思える人と巡りあうことができた。これから喧嘩もするかもしれんし、泣かしてしまうこともあるかもしれん。旅をして絶景を眺め、日本に帰れば新しい生活が始まる。子供だってできるかも。10年、20年、50年後、数え切れないくらいの日々をずっと過ごしていくことになる。そうした1日1日を当たり前と思ってしまう時がある。いや、だいたい思ってる。でももしかしたら、明日にはもうカンちゃんと一緒にいられないかもしれない。カンちゃんを抱きしめて、ほっぺたをムニムニして、カンちゃんが可愛く笑うのをもう見られんかもしれん。何気ない1日を大事にしないといけない。この毎日を記憶に焼きつけよう。幸い俺たちは旅をしていて、毎日が刺激に溢れた忘れがたい日常だ。楽しんで楽しんで、いつか来る別れのために後悔をせず、カンちゃんを笑わせていよう。爺ちゃん、帰ったらカンちゃん連れて顔見に行くよ。俺お嫁さんできたんだよ。そんな生活してたらいけん、ってずっと爺ちゃん言ってたけど。「あー、文武かい?久しぶりじゃのぉ。元気にしとるんかい?」「婆ちゃん、大変やったね。」「ああー、大変大変。でもあれじゃのぉ、海外におるゆうのに近くで話しよるようじゃのぉ。」「もう今はそんな時代だよ。帰ったら奥さん連れて行くからね。それまで元気でいてよ。」「ああー、いけんいけん。こがぁな山の中に連れてきちゃいけん。山の中じゃけぇ恥ずかしゅーていけん。とにかく元気で帰ってくるように。ほじゃの。」電話を切ってギターを構えた。弦を弾くとコインが入る。白人さんが知らない言葉で話しかけてくる。アルプスの山がヨーロッパの町並みの向こうにそびえている。歌え。明日死ぬかもしれん、1曲1曲、最後の曲だと思って歌え。昔、飲み屋街の酔っ払いに言われた言葉。そういえば俺、爺ちゃんに演奏聞かせたことなかったなと思った。親も親戚も、誰も俺に帰ってこいとは言わない。みんな俺がこういう生活をしてるということを理解してくれていて、嬉しいことに応援してくれている。爺ちゃんの死に帰ってこない薄情者、とはきっと思ってないはず。逆にこれで帰ったら、やり遂げんうちに中途半端で帰ってくんなって言われると思う。都合のいい解釈とは思わない。やるべきことをやり遂げて、胸を張って爺ちゃんに会いに行こう。弦を弾く。コインが入る。子供が笑顔になる。爺ちゃん、俺結構いい歌うたえるんだよ。