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修学旅行生ってなんで名前彫ったキーホルダー買うの?








2006年12月6日 【長崎県】




目を覚ますとそこは長崎半島の先っちょ、権現山展望台の駐車場。

いーい天気だ。


晴れやかな海を臨むと、紺碧の海にポツンと浮かぶ灰色の島が見える。


あれが軍艦島か。




海底炭鉱の基地として栄えたあの小さな島には、1950年代、5000人もの人間が生活し、島中に所狭しと高層マンションや学校、病院が立ち並び、その姿が海に浮かぶ軍艦に見えたことからこの名がついた。


今は無人島となり当時の繁栄振りをうかがわせる廃墟が海に取り残されている。





今まで色んな廃墟を探検してきたが、まさに廃墟のキングオブキング。


ものすごく行きたいところだが、モチ立ち入り禁止。

渡航手段もない。

さすがにあそこまでは行けねぇな。







よっしゃ!!

それじゃあ修学旅行の聖地、坂の町、長崎市南部に突入だ!!


中華街の近くに車をとめ、いざ出撃。




まずは国宝、大浦天主堂へ。




うおー………………

中学校の修学旅行のときに来たけどこんなに感動的な景観だったとは………………


ゴシック様式の建物に『天主堂』の看板。


教会という西洋文化の象徴に、なんとも野暮ったい日本の漢字が掲げられていることが歴史の面白さを感じさせてくれる。



1864年に建てられた日本最古の木造教会。


もちろんまだ当時は禁教令中なのだが、鎖国は解かれていたので外国人の信者たち用にこの礼拝堂が建てられたわけだ。


しかし長崎は隠れキリシタンの土地。


いてもたってもいられなくなった隠れキリシタンたちは、人目を盗んで天主堂に行き、そこで祈っていたプチジャン神父に、自分たちがキリスト教信者であることを告げる。


えーーーーー!!!!!

日本のキリシタンは絶滅したと思ってたのにーーーーー!!!!!


とプチジャンさん大喜び。


実は長崎市内に数万人の信者がいたことがわかり、この信者発見は東洋の奇跡といわれた。



隠れキリシタン発見の聖地としてフランスから贈られたマリア像が入り口で出迎えてくれる。

300円で入堂し、厳かな気持ちで祈りを捧げ、裏手から順路ぞいに進んでいくとグラバー園へ入る。


ここと出島と歴史文化博物館の3つの共通券が1000円。


普通にそれぞれ行ったら1700円だ。











1858年に鎖国が解かれ、ここ南山手の地に外国人商人たちの居留地が造られた。


他にも市内に散らばっていた洋館がここに移され、グラバー園として公開されている。





グラバーとは幕末に日本にやってきた商人の1人。

グラバー商会を設立し、外国の近代技術を日本に広めた彼が来日した時の年齢がなんと21歳というから驚きだ。


同年代ということで幕末の討幕派の若者たちと気が合い、伊藤博文らの外国への密航をグルになって支えたりしている。









彼の住んでいた旧宅は木造洋風住宅として日本最古のもので、重要文化財に指定されている。


広々とした芝の緑が鮮やかな園内を歩き回りながら、眼下に広がる長崎の港町を見わたす。


ヨーロッパの若者たちはこの東洋の果ての小さな島国に大きな夢を抱いて海を渡ったんだ。







どうでもいいけどなんで修学旅行生って、

『名前彫ります』

のキーホルダーをこぞって買うんだろう。




グラバー園を出たところにある土産物ストリートには、そういったキーホルダー屋やカステラ屋、ジャニーズの壁掛けや『海人』『必勝』とかわけのわからん文字が描かれたTシャツを置いた店がズラリと並んでいて、全国からやってきた様々な制服姿の学生が群がっている。


俺もここでカステラ買ったなぁ……………







洋館が並ぶ長崎らしい風景のオランダ坂を歩き、次にやってきたのは出島。


1633年に鎖国が始まり、外国との接触を断った日本。


しかし唯一、ここ出島では1641年から1859年までの間オランダ貿易が続けられた。


最初はポルトガル人宣教師の収容所としてつくられたものだが、島原の乱があって圧力が強くなりついに国外追放。

そこに平戸のオランダ商館が移された。



オランダももちろんキリスト教。

なんでオランダはいいの?ってオランダはポルトガルのカトリックと違いプロテスタントだから、ということらしい。


内心貿易はしたいから…………という幕府の苦肉のこじつけだったのかな。






さーて、その出島はどこかねーと、あの教科書で見た扇状の埋立地を想像しながらアスファルトとビルが立ち並ぶ中を歩いていると、おもむろに出島の看板が立っていた。


え?………ここ?





時代の流れだな。


あの海に突き出した姿はみじんもなく、周りを埋め立てられて陸地の一部となっていた。


中には復元された新しい建物が並び、近代的な資料館で当時の生活ぶりが紹介されている。





出島から出ることは認められていなかったが、そのかわり芸者さんたちの出入りは特別認められていたという。


出島を作ったのは地元の日本人25人。


この人たちがオランダ人に場所を貸し出していたわけだが、なんと1年間のショバ代が今の金額で1億円っていうからビビる。


この25人、スーパー既得権益だな。


貿易はそれだけ儲かる仕事なんだ。








さてさて、お次は長崎の繁華街、思案橋へ。




ここ円山地区はさっきまでの西洋文化地域とはうってかわって芸者さんの料亭が並ぶ古くからの花町で、江戸の吉原、京の島原に並ぶ三大花街としてにぎわっていたという場所。


『行こか戻ろか思案橋』


というふうにかつてここには橋があり、みんなこの橋でカミさんのいる家に戻ろうか芸者のいる花町に行くか思案していたことからこの名がついたという。





古い民家が並ぶ風情ある石畳の道を歩いていると、着物の女の人が石段を上がっていった。


芸者さんには品がある。

芸者さんは芸が出来なければいけなかったわけだし、身なりにも金を使っていただろうし、頭もよければ礼儀作法なんてそれこそ血がにじむほど叩きこまれていたようだ。

それが今の夜の女には品どころか色気もないようなのがほとんど。


礼儀作法どころか言葉遣いも知らない。

女を売るってのは体だけじゃないよな。








丸山地区を抜けて寺町通りをぷらぷら歩いて、古刹の境内の間から石段を登っていく。


草ボーボーの荒れた道にはやたらと野良猫の姿。


有名なオランダ坂よりもこっちのほうが長崎らしい坂の町のムードを味わえる。





そんな狭い民家の間を歩いていくと、道の脇に石碑が現れた。

『亀山社中の跡』

そう、ここは日本初の商社、亀山社中があった場所。

創設者はご存知、坂本龍馬。






欧米のアジア植民地化が進む中、アヘンの貿易を巡って清とイギリスが戦争。

アヘン戦争だ。


大国であった清が破れ、ついに日本にもその手が伸びてきたのが幕末。


アメリカのペリー、ロシアのプチャーチン、の開国勧告により1633年から続いた鎖国が解かれ、日本に外国人がなだれ込んでくる。


それに危機感を抱いたのが尊皇攘夷の若い志士たち。


龍馬は、強い海軍を作らんことには外国に立ち向かえんぜよ!!と資金作りのために貿易業を始める。


これが亀山社中だ。


本当はちゃんと色々見たかったんだけど、もう時間が遅かったため資料館などはどこも閉まっていた。


残念。








古びた民家群の隙間から龍馬が見たのと同じ角度で長崎の町を眺めた。


俺ももっとでかいことやらねーとな。







それから坂を降りて夜の新地中華街をぶらついた。

オランダ人は出島にしか出入りできなかったが、中国人は自由に町を闊歩していたらしい。




しかしいざこざが絶えなかったためにこの中華街の近くに唐人町という中国人の町が作られ、そこで暮らしていたようだ。

今でももちろん唐人町はある。





長崎、すごい街だ。

洋館、教会、中華街、お寺通り、花町、オフィスビル群………………


なんて多様な顔を持っているんだろう。


こんな面白い町なのに、修学旅行で来た時は1ミリも興味なくて、夜に好きな女の子の部屋にどうやって忍び込んでやろうかとかそんなことしか考えてなかったな。


中学生なんてそんなもんだ。

恋愛こそが社会勉強。


ちゃんぽんを食べて銭湯に入って、車に戻った。







そして長崎巡りのシメはここしかない!!!!


ファントムのエンジンをかけて市内を見下ろす小高い山を登っていく。


あーーーー!!!

もう!!!!

エンジンが空回りしすぎて坂道全然登らない!!!!!


ファントム、ボロすぎ!!!


時速20キロくらいしかスピードが出ないので後ろ大渋滞!!!


空回りしすぎて焦げついた臭いが車内に充満する。


ファントム頑張ってくれー!!!






いつ爆発するかハラハラしながらなんとか中腹までやってきた。


ここからは往復500円のゴンドラで頂上を目指す。


そうして展望タワーに到着し、屋上にのぼる。


風の吹きすさぶ屋上の手すりにつかまった。



「はんぱじゃねぇ…………………」





長崎といえば夜景。


街の真ん中を割る港を挟んで、眩しいほどに輝く灯り。

山の斜面にも住宅がびっしり密集しているため、平面的な夜景とはまた一味違う美しさ。


函館には一歩及ばないがそれでもダントツの2位だ。


きれいだ………………



それにしても、ここまできても修学旅行生めちゃくちゃうるせぇ。







夜景を満喫して山を降り、長崎のネオン街、銅座でギターを鳴らした。




修学旅行で来た時、まさか数年後に自分がこの町の路上でギター弾いて歌う日が来るなんて夢にも思ってなかったよな。


まだあの頃はギターを弾き始めたくらいだった。



この日は7000円でフィニッシュ。

意外とさだまさしのリクエストはなかったな。


九州はあったかいなー。

ぶるぶる震えていた去年の群馬がウソのようだ。








翌日。





長崎県といえば複雑に密集した大小の島の集合体。


一体何個の島があるのかというと、なんと971個。

もち全国一だ。


全部行っていたらマジで200年くらいかかるのでめぼしいところだけ渡るとしよう。






8時10分、長崎港から2700円でフェリーに乗りこみ、3時間半で到着したのは五島列島の福江島。


えーっと……………何も考えんで来たけど、どこから回ろう。


つーか雨めんどくせぇ……………


帰りのフェリーは16時40分。


島の周囲は300キロ以上あって、しかも名所は島の全域に散らばっている。

ぜってー全部回れない。

でも行けるかもわからん。


カッパを着込んで早速ヒッチハイク開始。


ウオッ!!!!!

秒殺で1台目ゲット!!!!



「あー、そりゃ無理だよー。まぁ行くとしてん堂崎ん教会ぐらいのもんたい。そこまでは乗せてくけん。」






五島列島はこの福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島などの大小無数の島々の総称。


隠れキリシタンの島として有名で、列島のいたるところに50もの教会が点在している。


そのシンボル的存在の堂崎教会は、入り江のさびしい浜辺にぽつんと建っていた。



「待っとったるけんが、ぱぱっと見てこんね。」



傘を借りてすたこら教会へ。




うわー…………こんな日本の片隅の島にもこんなきれいな教会があるんだもんなぁ……………


思想ってすごいなぁ……………








静まりかえっている教会内で祈りを捧げて車に戻った。



「これ以上遠くん行ったらフェリーに間に合わんなるけんが、福江まで送ってくな。まぁ次に来たときは連絡せんね。うちん泊まればよか。今度は列島全部案内してあげるけんな。」



おばちゃんはグラスボートの観光船の会社をやっている方で、島のことは何でも知ってる達人。

他にも見たい教会や空海が唐に渡った時の日本最北の地など行きたいとこはもっとあったが、おばちゃんとの出会いがあっただけでも島に来た甲斐があったってもんだ。





福江に戻り、おばちゃんに手を振って別れ、石田城跡へ。




異国の侵略に備え、1863年に築かれた日本で最も新しい城だ。

島で城ってなんか不思議な感覚だな。


城内にある観光歴史資料館は五島の歴史、観光、民芸などについてとても充実した内容を展示している。









武家屋敷の町並みや、鬼に正面から立ち向かう勇壮な絵が描かれたバラモン凧なんかを見て、地元の人がよく行くという食堂『うま亭』で、全然島を回れなかった分、いいもん食ってやろうと五島牛の牛丼を食べた。


750円だったかな。

あごが砕け散るほどうまかった。



そして16時のフェリーにすごすごと乗り込み島を後にした。

あっという間だったけどいいとこだった。

また絶対来よう。





長崎についたころにはすでに20時をすぎていた。

さてこれで長崎は制覇だな。


佐賀の残りに向かうぞ。



あー!!!最近日記が歴史の教科書みたいだー!!!



リアルタイムの双子との日常はこちら





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