2006年12月4日 【長崎県】
ゆうべはあれから目をつけていたライブバー『わおハウス』にちょこっと情報収集に行ってから路上に行き、4000円のあがりだった。
米軍基地があるおかげで佐世保の町はそこらじゅうネイビーだらけ。
その中でイルミネーションを浴びてサンタの格好をして商売をしている日本人。
信仰心のかけらもない人々が目をキラキラさせている。
アメリカ人の前で。
『わおハウス』のマスターの話によると、佐世保にはそんなアメリカ人にナンパされるために県外からたくさんの女がやってくるという。
長崎のヘビーな歴史を学びながら回っていると、そんな光景がめっちゃ恥ずかしく見えてくる。
ムカムカしながら車に戻り、毛布をかぶった。
目を覚ますと、そこは長崎北東部にある島、平戸島。
のどかな風景がひろがるほんの小さな島だ。
1550年に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルが滞在し、じきじきにキリスト教を布教した地域なだけあって、長崎の中でも根強い信仰心が息づく島だ。
いたるところにいくつもの教会がひっそりと扉を開けている。
まずは小さな漁村にあるキリシタン資料館へ。
驚くことに隠れキリシタンは今現在もいるらしい。
正確にいえば隠れキリシタンという、キリスト教とはまた一線を画す宗教があるという。
え?
隠れる必要がなくなったのに、どういうことだ?
年月とはすごいもので、禁教令中の数百年の間培ってきた、『隠れて信仰する』という形式が定着し、人々の中でキリスト教自体が、そういうもの、になってしまったのだ。
宗教の自由が認められてからも正式なキリスト教徒にはならず、仏教や神道と融合した独自の宗教を継承しているという。
もっとも今では隠れキリシタンの後継者がいなくなり、今の爺ちゃん婆ちゃん世代がいなくなったらこの歴史の中で生まれたいびつな宗教はなくなってしまうそう。
なんてすごいことだ!!
人間ってマジで奥が深いわ。
紐差の集落にある白く美しい教会に到着。
鍵のかかっていないドアからおそるおそる中に入ると、机の並ぶ通路の奥に祭壇が見えた。
静寂に包まれ、ステンドグラスの窓から差し込む灯りが絨毯を照らし、マリアとキリストの像が物言わず視線を落としている。
お寺では合掌、神社では拍手が礼儀。
教会ではなんだ?
膝をつき、指を組んで目を閉じてみた。
キリストは何も言わない。
マリアは優しく頭に手を置いてはくれない。
誰も見ていない中、祈るからこそ自分の心に正直になれる。
正直になった心にこそ宗教は意味をもたらす。
宗教とは人間の心の闇を照らす太陽。
きちんと自分の宗教を持っている外国人が、日本人にない積極性を持っているのがわかる気がする。
少し北上し、今度は宝亀の教会に行き、祈りを捧げる。
赤レンガと白い柱のコントラストが美しい。
それから平戸の市街地に戻ってきた。
1550年にポルトガルの貿易船がやってきてから西洋文化が花開いた日本。
長崎に貿易港が作られるまでは、この平戸の港にオランダ商館が建っており、そのころの名残りが町のそこここに見られる。
また、弘法大師が804年に遣唐使として大陸に向け船出をしたのもこの平戸だ。
今はさびれた小さな港町だが、昔は平戸藩のお城もあり、重要な歴史を秘めたロマン溢れる港だ。
民家の間に坂が伸び、どこか洋風の雰囲気が漂う地形は、イタリアあたりの地中海の町のよう。
まずは弘法大師空海が船出に際して風待ちで平戸に滞在していた間に建てたというお寺、最教寺にお参り。
次にオランダ商館跡の岸壁へ。
埠頭の石段や屋敷を囲っていた石塀がかろうじて残っているだけだが、それでも充分思いを馳せることができる。
1636年の江戸幕府の鎖国令により、長崎の出島以外には外国人は入れないようになったというのは知っていたが、それまで日本にいた外国人およびその嫁と混血児のすべてがジャカルタに追放されたというのは知らなかった。
ジャカルタに追放された者たちが望郷の念をしたためた手紙を、長崎の出島に入る商船に託して故郷に送っていた手紙、『ジャガタラ文』を平戸観光資料館で見学。
最後に聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂へ。
石畳の坂道を登っていくと、お寺が立ち並ぶ間に、教会の姿が垣間見える。
和と洋の文化が交錯する平戸の代表的な風景だ。
教会の中にはミサの予定表が貼ってある。
遺物ではない。
今も当たり前に信仰の場なのだ。
ネイティブな長崎が見たければここから北上したところにある生月の島がいいというが、往復1200円の橋を渡らないといけない。
あきらめて次へ。
島を出て美しい海岸線を走っていくと、田平の田舎にひっそりと建つ田平教会があった。
赤レンガの美しい姿。
たくさん教会見たけどここが1番きれいだな。
教会の中は静まり返っており、ここでも祭壇の前で掌を組んで心を開く。
無音の空間に俺1人。
まるで俺も1つの像のような気分になる。
落ちつくなぁ。
俗界のわずらわしさが一切ない清らかな空間だ。
海の風景があまりにもきれいなので、展望台があるという冷水岳に登ってみた。
「うおおおおお………………ハンパじゃねぇ……………………」
北九十九島を一望する360°の大パノラマ。
雲の隙間から光の筋が海にさしこみ神々しいほどだ。
いやぁ、長崎いいわー。
ゆうべの佐世保での路上で「ヒカリバーガーは美味しい」と地元の方々が言っていたので、昨日の昼のハンバーガーから何も食べていない。
空腹を我慢して車をとばす。
すると子佐々という小さな集落にいい感じに年季の入った食堂を発見。
うーん……………もうムリ!!!
というわけでヒカリバーガーは諦めて中野食堂のドアを開けた。
「はいはーい、いらっしゃーい。どこから来らしたとね?」
いきなり超フレンドリーなおばちゃん。
焼肉定食600円。
超大盛り。
うまい。
「あー、生月は行かんかったとねー。あそこは橋の高かもんねー。」
ママと話していると横にいた常連さんっぽいおじさんが言った。
「ん?ママ、あん橋は今は200円くらいに値下げしたるごたるよ。」
なんだとおおおおおおおおお!!!!!
くそ、ケチらんで行けばよかった!!!!
俺の日本地図、2003年版だもんな。
情報遅れすぎ………………
「よかったらウチば泊まりこらしたらよかよ。ばってん狭かよ。」
「イノブタも出よるで。兄ちゃん気をつけんば。」
「え?イノブタが出るんですか?」
「ホレ、目の前で料理つくっとる。」
「うひゃひゃひゃひゃひゃー!!!!」
というわけで久しぶりのお泊り。
広い家でお風呂を沸かしていただき、おばちゃんと2人で焼酎を飲む。
犬のクッキーが足にじゃれついてきた。
「ウチん旦那はほんなこつ世話好きだったっつたい。毎晩どっかこっかかい人ば連れちきてご飯食べさせてねー。酒好きでねー、亡くなったばってん今おったら大喜びで一緒に飲んどらすわ。」
隣人愛、これもまたキリスト教だ。
おばちゃんは仏教らしいが、この長崎では人同士の博愛精神をとても感じる。
おばちゃんの楽しいお話を肴に飲むお酒がとても美味しかった。
翌日。
友達の家で寝てたような気分で目を覚まし、おばちゃんと一緒に朝ごはんを食べ、ゆうべ洗ってもらった洗濯物を取り込んで中野食堂にやってきた。
おばちゃんの送り迎え、出前なんかのお手伝いをしてくれているおじさんがみそ汁を出してくれる。
このおじさんは亡くなったママの旦那さんの親友。
旦那さんの遺言で、1人になったママのサポートをしてくれているんだそうだ。
しかし田舎の人は変な噂を流したがるもんで、よく一緒にいるこの2人のことを怪しいとヒソヒソ言ってるそうだ。
なんか悲しいなぁ。
ご近所さんでそんな心無いことを言うなんて悲しいよ。
それも人の営みのひとつなんだろうな。
「おっ!!旅人か!!よしホレ、これで飯でも食え!!」
常連のおじさんに1000円をいただいた。
中野食堂のみんな、ほんとにありがとうございました。
海に囲まれたいびつな形をした長崎県。
外海という集落に入ると、今日も早速教会が目に入った。
明治6年、キリスト教禁教令が解かれ、海外からたくさんの宣教師が日本にやってきた。
この外海にやってきたのはド・ロ神父。
亡くなるまでの33年間をこの地ですごし、布教するだけでなくそうめんやマカロニなどの作り方、貧しい人々に自活の技術を伝えた博愛の人だ。
水平線を望む白亜の出津教会、隠れキリシタンの物語を描いた遠藤周作の『沈黙』の映画の舞台となった黒崎教会など、田舎にひっそりとたたずむ姿が、素朴な信仰の崇高さを教えてくれる。
教会とはまた別に『修道院』と書いてある看板もあった。
教会とどう違うのかわからなくて町の人に聞いてみるの、『修道院』ってのは宗派ごとの宿舎のことなんだそうだ。
『天主堂』ってのは明治期に入ってきた言葉。
『教会』ってのは戦後に入ってきた言葉。
そんなことを参考にしながら、長崎でも有数のキリシタンの歴史を持つ海辺の丘を歩き回った。
さぁやってきたぞ長崎市!!!!
中学校の修学旅行以来!!!
見所ありすぎてどこから行けばいいかわからんーーーーーー!!!!!!!
とりあえず今日は市北部の浦上地区から攻めるぞ!!!
幕末の禁教の最中、この浦上地区で大量のキリシタンが摘発された。
これを『浦上くずれ』という。
3394人が流刑に処され、西日本のいたるところに少数ずつ小分けにされて飛ばされた。
この前行った島根県の津和野もその流刑地の1つだ。
キリシタンたちは遠い知らない土地でありとあらゆる拷問を受け、660人という大量の殉教者を出す。
そのすさまじい惨状は諸外国に響き渡り、大非難を浴びたことにより明治6年の禁教令解禁にいたるわけだ。
そんな浦上地区のシンボルといえば、そう、浦上天主堂。
さすがに都会の教会はスケールが違う!!
でかすぎ!!
装飾凝りすぎ!!
マジで本場ローマの教会みたいだ。
中に入ると、薄暗い広い空間にステンドグラスの色彩とボヤッと浮かぶキリストの姿。
うーん、神秘的だ。
大正14年の創建当時は東洋一の美しさといわれていたという。
がしかし今の建物はとても新しい。
そして入り口の近くにはボロボロに崩れ落ちた石像がある。
そう、原爆だ。
1645年、昭和20年8月9日。
プルトニウム爆弾を搭載したB29が小倉の上空を飛ぶ。
本当は小倉に落とす予定だったのだが先に投下していた焼夷弾の煙のせいで、視界が悪く落とせない。
そのために次の候補地だった長崎に投下された。
広島に落とされた3日後だ。
それは昼前の11時2分。
3000℃から4000℃の、ガラスや瓦が沸騰するほどの熱線により、人間は一瞬で炭に。
74000人が即死。
異国情緒あふれる美しい坂の町は一瞬にして瓦礫の山と化した。
もうほとんど当時の傷跡は残っていないが、爆風で吹っ飛んで片足になっている石の鳥居が街の中に見られる。
平和公園に行くと、長崎のシンボル、平和記念像が雄々しく手を広げていた。
上空に突き立てた右手が原爆の恐怖を、水平に延ばした左手が恒久の平和を表しているらしい。
原爆資料館、落下中心地の碑などを見て回り、沈んだ気持ちで車に戻った。
母ちゃんが炭になって、触ったらボロボロ崩れ落ちたなんて……………想像しただけで頭がおかしくなりそうだよ。
そんなCG映画みたいなことが現実にこの地で起きて、その当事者たちがまだ生きているという世界。
人間、薄皮一枚下の本性はとてつもなく恐ろしいよ。
長崎市を出て南へ走っていく。
無音の車内。
聞こえるのはエンジンのうなり声。
と、その時だった。
車のいない夜道を走っていると、いきなりヘッドライトやオーディオなんかの電気系統がパッと消えた。
危ねぇ!!!!!!!
急ブレーキを踏んで道路の真ん中で止まった。
マジか、なんだこれ……….……
運転中に真っ暗闇になるとかやめてくれよ……………
どうやらバッテリーがもう寿命らしい。
上り坂もちょっと急なところだと2速じゃないと登らないし、カランカラン!!という異音は日増しにでかくなっているし、タイヤももうツルツルだ。
俺が毎日履いているブーツはつま先がガマ口のようにぱっかぱっか開いてるし、デジカメは半押しが出来なくなっているし、レンズの中のゴミが写真に映りこむ。
ほんと、もうなんもかんも限界に近づいているなぁ。
あと少しの辛抱だ。
がんばってくれ。
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