2006年12月2日 【長崎県】
島原半島の南部に向け走っていく。
いたるところにかまぼこ型の墓碑、処刑場や神学校跡など、キリシタン弾圧の傷跡が寂しげに残っている。
「島原はね、家の軒先にしめ縄を張っとるんよ。正月だけやなかよ。年中。そんで仏壇もね、玄関入ってすぐのところに作っとるんよ。それはねキリシタン弾圧の時に、うちは仏教徒で神道ですよーってアピールのしていた名残やとよ。あと今から原城に行くとやろ?墓石とかそこらの物に触っちゃいけんよ。あそこにはまだ何万体って骨の埋まっとるけん。」
さっき入った食堂のご主人がそう言っていた。
1613年、キリスト教禁止令が出されてから明治20年の撤廃までの約280年間。
日本中の、特にキリシタン王国だったこの島原半島の人々は、表向き仏教徒ということにして影でひたすらキリストを拝みつづけた。
耳や鼻、指を切り落とされ、火であぶられても信仰を守りつづけた。
島原湾に面した原城址にやってきた。
穏やかな水平線が見渡せる丘の上の城跡。
優しい風が吹きすぎる。
ここで日本史上最大の虐殺が行われたのか……………
キリシタン大名だった有馬氏に代わってやって来た新藩主の政治は厳しいもので、尋常じゃない年貢や、弾圧により住民の不満が爆発。
当時、普賢岳噴火の予知など不思議な能力で『神の子』と言われていたわずか16歳の天草四郎時貞が民衆を先導し、島原の乱が勃発。
手当たり次第に奉行所をぶち壊して回り、一時は島原城をも陥落寸前にまで追い込む。
その後、原城に立てこもり、半島南部の人々を集め37000人の籠城戦に突入。
対する幕府軍は12万人で、大砲などの最新の武器を使って攻める。
原城側の武器は鍋やヤカン。
神のご加護を信じ、女子供、老人までが石を投げて闘った。
石投げるとかめっちゃ原始的だ。
ちなみにこのとき幕府軍の大将として戦いを指揮していたのは、かの宮本武蔵。
めっちゃ武神やんと思ったらなんと武蔵さん、投石によって瀕死の重傷を負ったらしい。
石投げの威力パナい。
なかなか手ごわいキリシタン。
しかし兵糧攻めに戦法を変えてから一変。
人々は草の根を食べながら応戦したが、餓死者が続出。
私を食べなさいと言って死んだ母の肉を食べる子供まであったという。
勝てるはずもなく原城は落ち、全国のキリシタンたちへの見せしめにそこにいた3万人が皆殺し。
信者たちは天なる父の元へ行けると笑いながら死んでいったという。
そして城は死体の海と化した。
3万人て……………
現在、わずかに城郭の土塁が残るのみとなっているこの原城跡。
青い水平線が見える。
荒れ放題の広場の片隅に、手を組んで祈る天草四郎の像があった。
人間は今も戦争を続けている。
半島の南端、口之津は日本で始めてクリスマスパーティーが開かれた地らしい。
もちろん禁止令の只中。
見つかれば拷問。
そんな中、ささやかにキリストの誕生を祝っていた。
それが今では、
「教会でもクリスマスのお祝いするんですね。」
というやつがいるほどクリスマスはただの恋人たちの聖なる夜というイベントごとと化してしまっている。
命をかけて信仰を守ってきた島原の人たちは、もうすでに始まっているクリスマス商戦をどういう風に見ているんだろうな。
申し訳なくて信者でもないのに浮かれられないよ。
山を駆け上り、九州の軽井沢といわれる一大温泉リゾート地、雲仙にやってきた。
硫黄くさい湯煙が立ち込める山内に巨大なホテルと土産物屋が並び、人でごったがえしている。
ぞうりでタッタッタと散策。
表通りはなかなか綺麗だが、一歩路地裏に入ると古びた建物が並び、昭和期のリゾート開発からそのまんまという傷みよう。
入り組んだ配管、廃墟のコンクリート壁。
うー!それにしても寒い!!!
湯気に視界をさえぎられながら丘を登っていく。
硫黄の噴気で草が枯れ、荒涼とした景観となっている雲仙地獄。
ここもまたキリシタンの拷問が行われていた地のようで、熱湯をかぶせたり、高温の沼に突き落としたりとまさに地獄そのものだったという。
時は流れ、宗教の自由が認められるようになった先進国、日本。
今となってはキリスト教は日本でもかなりの数の信者がいる。
仏教という異教が大陸から入ってきたときも神道派と仏教派で権力争いの内乱が起ったが、今では仏教は立派な国教だ。
すべては時が解決してくれるんだな。
100円の公衆浴場に入って山を降りた。
山を降りると橘湾に湯気をのぼらせる小浜温泉に出る。
腹減った!!
小浜の有名な食堂『じゃの目』に入った。
ここの名物はなんといってもスープメン。
従来のチャンポンを地元の芸者さんの要望でアレンジしたこのスープメンは、牛乳の入ったまろやかな豚骨スープが麺によくからむ絶品だ。
エビやカキなんかの魚介ダシがまたいい。
ところでチャンポンとラーメンの違いってなんなのか?
スープの中に茹でた麺を入れて出来あがりのラーメンに対して、チャンポンってのはスープと麺と具を全部一緒に煮こむんだそう。
うーん、うまい!!!!
夜になり、諫早のネオン街にやってきた。
ちょっと小さくて不安だったけど気合いで歌う。
うわー!!反応良すぎ!!
たちまち16000円まで集まった。
「けっぱんしゃー!!」
「さむいけんがにゃー!!けっぱれ!!」
長崎弁、マジわかんにゃー。
でもけっぱれの意味はなんとなくわかる。
俺けっぱる!!
翌日。
もうずいぶん寒くなってきた。
おかげでよく眠れない。
しかもこの前、寝てる間に駐禁シールを貼られるという苦い経験から、もしかしたら貼られるかも……………というトラウマに囚われてしまって変な夢をよく見る。
さて今日は佐世保まで行くぞー。
向かっている途中、九州の観光トップ3に入るであろうテーマパーク、ハウステンボスの前を通った。
17世紀のオランダを再現したという園内には、ヨーロッパ風の風車やお城、花畑が広がり、香水店やチーズ工房などカップルが喜びそうな様々なテーマ館があるというが、入場料3200円。
視界に入ることもなく素通り。
そして、昔ヒッチハイクして歌いに来たことのある佐世保に到着した。
戦時中は日本有数の軍港だったこの地は、今は米軍と自衛隊の基地の団地。
けっこう栄えている街の中を走り、海上自衛隊の資料館、セイルタワーに行ってみた。
徳川時代から現在までの海軍の歴史をわかりやすく展示しているこのセイルタワー。
かつてアメリカに大打撃を与えた真珠湾攻撃。
しかしあの時破壊したのは戦艦や戦闘機ばかり。
石油タンクや工廠などの、肉ではなく骨の部分を破壊しなかったことにより、すぐに再生してしまったんだと。
もしあそこで主要部分に爆弾を落とせていれば……………ちくしょう!!と悔しがってる爺ちゃんって今もいるんだろうか。
もし大戦に勝っていれば日本の町中にこんなにも英語があふれてはいなかったんじゃないか。
白人に対してへりくだってしまう日本人の潜在的なコンプレックスは、間違いなく敗戦によるものだろう。
佐世保は米軍の基地があることから町中にアメリカ人がたくさんいる。
そのため本格的なハンバーガーショップがいくつもある。
このセイルタワーの近くにその代表格の『ヒカリ』と『ジンキッド』がある。
行ってみるとヒカリは休み。
ジンキッドには行列が出来ていてハンバーガー1個食べるのに30分待ち。
待ちたくはないけど、俺もたまには肉を食べんとな。
行列にならんで720円のスペシャルを注文。
30分待ってようやく紙袋を渡されると、
ズシリ。
え?
重い!!
これマックだったら5つ分くらいの重さだぞ?
なにが入ってんだ???
車に戻って開けてみると、マジで顔くらいの大きさのハンバーガーが入っていた。
ジャンクに徹してやろうとコーラを飲みながら食べてみる。
うげええええ……………
気持ち悪……………
好きな人は好きだろうが、こりゃ獣になった気分だ。
こんな肉々しいのばっか食べてたらそりゃ体臭もくさくなるわ。
吐きそうなほど満腹になった。
やっぱ日本人は鳥・魚・野菜だな。
お腹いっぱいになってから、いたるところに戦時中の砲台跡が残る半島を走り、石岳展望台へ。
たくさんのカメラマンたちが三脚を立てて狙っているのは、穏やかな海に浮かぶ九十九島の大小さまざまな島影。
狭い範囲に150もの島が浮かんでおり、その絶景は映画『ラストサムライ』のオープニング部分に使われているほど日本的な美しい景観だ。
さらに別の展望台、展海峰からも夕日に染まる島影を眺める。
このいくつもの島の中の1つ、黒島には重要文化財の石造りの教会、黒島天主堂がある。
日本一島の多い長崎には数え切れないほどの島があるが、教会の数もまた半端じゃない。
隠れキリシタンたちが長く苦しい弾圧に耐え明治に禁止令が撤廃されたときに、それぞれの地域の村人たちが私財を投げ打って建てまくったんだそうだ。
夕焼けが黒くなってから佐世保市内に戻ってきた。
ボロボロになって、いたる所がちぎれている使い古した日本地図を見ながら、残り1ヶ月のルートを考える。
残り20日で約3県か。
うーん、なんとか24日までに宮崎に到着できそうかな。
1日も無駄にできないぞと、佐世保の飲み屋街にやってきた。
日曜なのでほとんどネオンの看板も消えている。
路上もあと数えるほどしか出来ない。
旅に出て4年3ヶ月。
一体何回、人の前で歌っただろう。
よっしゃ、今日もけっぱるぞ。
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