2006年11月6日 【島根県】
島根には出雲大社ともう1つ、全国に誇る名所がある。
それが石見銀山。
かつての銀鉱山の跡地で、世界遺産登録を目指して頑張っているほどの規模らしい。
鉱山跡は鯛生、足尾、夕張などなど、今まで数多く行ってきたけど、栄枯盛衰を感じられる廃墟フェチにはたまらない場所だ。
山と人々の暮らしを偲ぶためにアクセルをふかす。
大田市内から山に入って30分。
いたるところに立っている銀山のノボリにワクワクしながら、中心部である大森の集落に入った。
1526年から採掘が始まり、1923年に閉山するまで銀を産出し続けたこの石見銀山。
かつて、最盛期には20万人という人々がこの山の中に住み、作業に従事し、海外にも輸出されていたころには世界の銀の産出料35パーセントを占めていたというから驚きだ。
1570年にヨーロッパで描かれた世界地図では、日本のところに『銀鉱山』と記されていたほどに日本の代名詞的存在だったようだ。
まずは役人や商人が住んでいた比較的新しい町、大森地区へ。
古い町並みが残る中に役人屋敷や土産物屋が並んでいる。
旧大森区裁判所へ入ってみた。
ここでは無料で町の情報を収集することができる。
映像でじっくり銀山の歴史を学んでから、いざ採掘場方面へ。
集落から採掘場までは2キロほどあり、みんなバスで行くのだが、俺は歩いて寄り道をしながら進んでいく。
いたるところに雑草や土に埋もれた穴がぽっかりと口を開けている。
これが坑道の入り口で間歩と呼ばれるもの。
この一帯にこうした間歩が500ヵ所もあるんだそうだ。
過ぎ去った時間の長さを物語る廃寺跡。
ここに寺が建っていたんだろうなという石垣、苔むした墓石が竹やぶに埋もれ、散乱している。
かつてこの辺りには民家がたくさんあって人ごみで賑わっていたんだろうな。
放置されたまま風化していく過去の記憶。
銀山にある間歩の中で唯一、一般公開されている龍源寺間歩に到着。
500本ある坑道の中で2番目の規模らしく、1715年に開発されたものだ。
600メートル続く大坑道だが公開されているのはその内156メートルだけ。
400円払って中に入る。
採掘は水との闘いというように、現在も水浸しの坑内。
メインの通路を歩いていくと、両側に人1人やっと入れるくらいの小さな穴が開いている。
こんな小さな穴の奥の奥で昼夜2交代でノミを打ちつづけるなんてハンパな過酷さじゃねぇ。
ここらの山の中、全部こういった細い穴が張り巡らされているのか。
気が狂う………………
龍源寺間歩を抜けるとここから先は舗装がなくなり、森の中をひたすら歩く峠道となる。
行きつく先は港のある温泉津だ。
昔はこの峠道を牛馬を使って銀を運び、港から各地に輸出していたようで、つまり主要な銀山街道だったわけだ。
歩いてみようかなと思ったけど、こっちへは行かずに道を逸れ、初期の採掘場だった石銀山の山頂をめざす。
落ち葉が敷きつまった急傾斜の森の中を歩いていく。
ほとんどの人はさっきの龍源寺間部を見てバスで大森の集落に戻ってお土産買って帰っていくので、もはやここまで来ると人の気配はゼロ。
静寂の森。
森を抜けると、そこにははらっぱが広がっていた。
ボコボコといたるところが陥没しているのは、坑道が落盤した跡ってことなのかな。
お、真ん中にかろうじてそれとわかる井戸を発見。
ここは戦国時代の採掘開始当初の集落があった場所で、はしっこの方に間歩番号1番の札が立っている穴があった。
ふもとの大森の近くにあった穴の札は500番とかだったもんな。
こんな感じで大森周辺だけでなく、周囲の山のすでに道がなくなっている奥の奥の方にも、採掘現場と集落が時代ごとに形成されていたわけだ。
もう日が傾き始めているにもかかわらず、ロマンにかられてさらに山の反対側へと下っていく。
苔むした岩、竹やぶや雑木林に埋もれた穴は、やはりどれも間歩。
さらにガンガン下っていくとすごいもんが現れた。
東南アジアのジャングルの中にある遺跡のような、巨大な岩壁が森の中に立ちはだかった。
いくつもの穴が部屋の入り口のように開いている。
冒険ものによく出てくる、宝へ続く入り口がいくつもあって、間違ったら罠があって骸骨の仲間入りってムードむんむん。
他にも岩の亀裂から中に続いている間歩や、すでに水で塞がっている間歩、昔は見所の1つだったんだろう安原備中という人の墓を示す崩壊寸前の看板。
暗くなり始めた森の中、やぶをかきわけながら行けるところまで行ってみた。
すげぇ、これこそ遺跡だよ。
石見銀山が他の鉱山より勝っているところは、こうした冒険心をかきたてられる未整備の部分の多さだな。
もっともっと探検したかったのだが、さすがに暗くなってきたのでもと来た道を戻った。
1人でプラプラ山を下っていると途中、大森の集落を見渡せる展望台があった。
眼下に広がる樹海、その谷間に寄り添っている集落、彼方には日本海の海原。
鉱山に生まれた者は何の疑問も持たずに、親がそうしているように坑道に入り、ノミを持ち、集落内の女を嫁にもらい、旅芸人の娯楽を心待ちにし、何の疑問も持たずに鉱山夫として死んでいく。
それが人間。
今の人間は自由すぎて自由に縛られている。
石見銀山、いい場所だった。
思いがけず時間がかかりすぎ、車を走らせて山陰の名湯、温泉津についたころにはもう真っ暗になっていた。
入江の奥にひっそりと並ぶ数軒の旅館と共同浴場。
外灯に浮かぶ町並み。
1300年前、この地を通った旅の者が妖怪に襲われる。
必死で抵抗し傷を負わせたところ、妖怪はまたたくまに消え、血の跡が残された。
血の続くほうに辿っていくと、1匹の古びたタヌキが温泉で傷を癒していたというのがこの温泉津温泉の始まりだ。
戦国時代には毛利元就が水軍の拠点としてこの入江から中国地方を制覇したという歴史もたまらない。
江戸、明治、大正と石見銀山の鉱夫たちで賑わっていたが、今ではひなびた風情の漂う静かな温泉地だ。
その中で1番歴史の古い共同浴場、元湯薬泉湯へ。
300円払ってレトロな外観の建物に入ると、常連さんたちのお風呂セットが棚にズラリと並んでいる。
小さな湯船の周りではたくさんの爺ちゃんたちが座ってお喋りしている。
シャワーはないので湯船から桶で湯をすくう。
長年の湯の花でタイルは茶色の自然石みたいになっている。
朝1番にくると湯に膜がはっているほど濃い泉質なんだそうだ。
「兄ちゃん、後ろ向いてみんさい。」
あ!!やった!!
常連さん同士でしか普通見ることができない背中の流しっこを初めてしてもらった!!
タワシでワッシワッシとこすってくるお爺さん。
熱い湯をかけられるとしみて思わず声が出た。
海が近いせいかしょっぱい湯。
コップにためて飲み干した。
昔から湯治場として栄えてきたこの温泉津。
地球のエキスをたっぷり含んだ地中から湧いた湯。
体の中の人工的な毒素が汗とともに流れ出ていくようだ。
ポカポカした体から湯気が出る。
タオルを首にまいて、時代が止まったかのような町を歩いた。
島根県いいなぁ。
歴史があって、ロマンがあって、自然豊かで、町もほどよく栄えてて。
良い人との出会いが多いこともその県の印象を大きく左右する。
島根、今まででだいぶ上位にランクインだ。
翌日。
鳴き砂の浜、琴ヵ浜があることから仁万の町には砂をテーマにした博物館がある。
このサンドミュージアムの中に世界最大級の砂時計があるという。
なんとその時計、1日でも1週間でもなく、1年をはかる砂時計なのだ。
すげすぎ!!
というわけでやってきたのだが入館料700円。
高いです……………
外からガラスにへばりつけば何とか見えんこともない。
んー、そんなたいしたことないかな。
温泉津の町を走り、古いトンネルをくぐって入江の反対側に行くと、隠れるようにひっそりとたたずむ沖泊の小さな港があった。
ものすごい強風で海は荒れ、波しぶきが吹きつけてくる。
ふと、そこらの岩場に円柱状の突起が見られるのに気づいた。
昔、銀山の産出で賑わっていた時代、船を停泊させるためにくくりつけていた岩で、鼻ぐり岩というものだ。
この入江の丘の上には戦国時代に日本最強といわれた毛利水軍の拠点、鵜の丸城の城址がある。
この隠れ入江に日本の海賊が潜んでいたのかー。
んー、ロマンに溢れてる。
エンジンオイルを換え、海沿いに南へ走っていく。
浜田、益田とちょっとした町はあるが特に目を引くものはなく、一気に島根県最後の町、津和野に向け山に入った。
しばらく山の中を走っていくと、小さな町が現れた。
山陰の小京都と呼ばれるだけあってなかなかに古びた町並み。
造り酒屋も多く、史跡も見所が満載だ。
分銅屋というお香屋さんで話を聞いてみる。
「ノンノン・アンアン族ってのが30年前にいたのよ。その時はもーすごかったんやけん!!町中、若い観光客で溢れとったんじゃけん!!」
下ネタ?
時間がないので今日は葛飾北斎美術館にだけ行くことにした。
肉筆画、富嶽36景の刷り物。
やっぱ北斎やべぇ。
大満足で美術館を出ると冷たい風に震え上がった。
うおー、寒い。
こりゃ真冬並みに寒いぞ。
外灯に浮かぶ蔵の町を寒さに凍えながら歩く。
そして『初陣』の酒造で純米をゲット。
通りから奥に入った小さな中華屋のスーパー年季の入ったテーブルで野菜炒めを食べ、道の駅に寝床を決めた。
うー、寒い。
これが旅最後の冬だ。
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