2006年2月8日 【静岡県】
遠州森町の小国神社にやってきた。
大木が立ち並ぶ境内にある立派な本殿にお参りして、ダッシュで車に戻ってエンジンをかける。
え?慌ただしい?
うん、それでいい。
旅って自分を追い込んでナンボだ。
車を降りたら2歩以上は走る。
ちんたらやってる暇はない。
1日の限られた時間の中でどれだけたくさんの場所に行けるかで旅の質が決まる。
1秒も無駄にせずバシバシ回るぞ!!!!
よーし次だ次ー!!
車を飛ばしてやってきたのは油山寺。
1300年ほど昔に開山した古刹で、重文の山門をくぐって境内へ。
『目』の霊山ということで、境内のいたるところに『め』という字が見られる。
日本中から目を患ってる人が霊験を頼り訪れるんだろう。
世界一長い数珠なんてもんもあったな。
桃山時代の三名塔の1つである三重塔、本堂も静寂とともに森に包まれとても貫禄があった。
ダッシュで次の金谷町に行き、お茶の里博物館にやってきた。
1000円の入館料は高いが静岡で茶の文化は外せない。
館内に入るといきなりスタッフさんからの台湾のウーロン茶によるお出迎え。
「干した後の器の残り香も楽しんでください。」
ほーー、なるほど。
飲み干した後の乾いた器から漂う香りすら楽しむってワケかー。
っていうか台湾!?
静岡産じゃないの!?
そこから世界中の茶葉の紹介、世界中の喫茶店の紹介、茶文化の説明へと続いていく。
外国では街頭で気軽に茶を一服キュッとやるのが日常のようだが、日本はどうも固っくるしいよな。
江戸時代なんかは神社仏閣の門前で参拝客相手に茶を淹れている人がたくさんいたらしいが、今はどこに行ってもみかけない。
逆にそれなりの年季のある店で日本茶を飲むとなると結構高価だったりする。
展望ブースのカウンターでまた一服。
地元静岡のお茶。
んー、お腹たぷたぷになりそうだ。
そして次に茶室と庭園へ。
どちらも江戸の茶人、小堀遠州が設計したもので、空間をいかしたわびさびに満ちた造りだ。
当時の茶人は利休もそうだが、茶室を自分で設計していたインテリアデザイナーばかり。
原代でもその日本的な美しさはまったく古臭くないんだからすごい。
欄間の透かし、釘隠し、取っ手、棚……………
んー、洒落てるなぁ。
それから奥の部屋に案内された。
ここで本気のお茶タイム。
広い部屋の中、わざわざ端っこに座る。
着物のおばちゃんがツツと出てきて、湯の釜の前に座った。
赤い手ぬぐいのような布で柄杓をゆっくりと拭き、自分の右側に置く。
湯を汲み、左側の器に捨ててもう1度………………
とまぁ、茶を淹れる、というだけの行為のはずなのにすべての動きが教科書どおりかのように意味不明でいて緻密だ。
しかしじっくり見ていると、なぜか引きこまれ、その滑らかで奥ゆかしい動きが、静寂の中に響くカツ、コッ、シャカシャカという物音とシンクロし、とても心地よく感じられる。
なるほど、茶はこの空白の時間も、そして型も楽しむものなんだな。
おいしい茶と茶菓子をいただきつつ、色んなお話をうかがった。
今淹れてもらった型は『平手舞』とかっていうオーソドックスな型らしい。
流派は裏千家。
裏とか表とかよくわからん。
千利休に始まるわび茶の茶道は、3代目までは1本で伝わっていたが、3代目の時代に3本に分かれる。
それが表千家、裏千家、武者小路千家の3つ。
他にも江戸千家、遠州流など、かなりの多くの流派に分派して伝えられている。
「んー…………どこがどう違うんですか?」
「例えばですね…………」
と、さっきの小さな赤い布をクルクルと折って見せてくれた。
この折り方が裏千家の折り方なんだという。
1ミリも違いが分からない…………
ていうか布の折り方で流派が違うとか細かすぎ!!!!
他にも柄杓の構えがわずかに違ったり、マジでめっちゃ微妙な違いしかない。
それだけで分類できるとか、どんな奥深い世界なんだよ。
でも実は意外なほど気軽に入門できるし、頑張って練習すれば3年くらいで茶の世界のあだ名、茶名を家元からもらえるそうな。
そんな~流とかの固っくるしいのが嫌ならば、通信教育でもインストラクターの免許が取れたりするらしい。
うーん、俄然興味が湧いてきた。
フォークはわびさびだ。
茶ときっと通じるものがあるだろう。
旅が終わったらきっと勉強しよう。
もう時間がない。
博物館を後にし、急いで車を走らせる。
焼津市の『磯自慢』には行かず、大東町『開運』へとハンドルをきる。
茶畑風景で有名な牧の原をかけぬけ、御前崎にも寄らずに急いで『開運』の土井酒造場にやってきた。
酒好きだったらこの名前は必ず知っているはず。
それだけ開運はこの業界では有名な蔵元だ。
結構広い町で、何度も道をたずねてようやく辿りついた頃には日はほとんど沈んでしまっていた。
お堀の川が流れる立派な門をくぐり、事務所に顔を出してみる。
何かお話を……………聞きたいところだったが、みんな超忙しそうにバタバタ動き回っているのでとても声をかけられず、結局本醸造の300ミリを購入するだけで精一杯だった。
あー、出会いなしか。
まぁアポなしじゃこれが当然だよな。
海岸沿いから362号線で山に入っていく。
もう太陽も沈み、外灯もほとんどないような山道をどんどん奥地へ進んでいく。
そうしてたどりついたのは春野町気田という小さな町だった。
山の中のささやかな集落で『輩(ともがら)』という居酒屋を探して回る。
ほんの小さな町なので人に聞いたらすぐにわかった。
小ぶりな、どう見ても地元の人しか来ない飾らない居酒屋。
店の中に入ってみると、お、やってるやってる。
「あ、金丸君?」
宮崎の綾部さんが紹介してくれていた高橋忠史さんがギターを持ってそこにいた。
ちょうど彼のライブが始まるところだった。
静岡テレビの取材も来ている。
有名な人なのかな?
「えー、それでは685回目のライブを始めたいと思います。」
ん?
685回目?
なんのことだろう………?
とにかくライブが始まった。
ライブとはいっても小さな居酒屋の店内で生アコギで歌うだけのもの。
高橋さんは50歳くらいか。
バリバリの四畳半フォークだ。
俺はやっぱりこういう人間くさいフォークが1番シンプルで伝えやすい表現だと思う。
そんなアットホームな感じで1時間半ほどでライブは終了。
すぐに高橋さんに声をかけた。
「日付が変わったらもう1度やるんだよ。1000日連続ライブってのやっててね。」
せ、1000日!?!?
すげぇ!!マジかよ!!
さっきの685回目ってのはこのことだったのか。
すげすぎる……………
雨の日も風の日も体調悪い日もトラブルが発生した日もあっただろうに……………
すさまじい精神力だ。
しかもラストの1000日目の12月20日は鹿児島でのライブらしい。
ちょうど俺の旅の終盤のころと日程が合う。
こりゃ面白くなってきた。
他にも356日ライブ、24時間ノンストップライブなど、はちゃめちゃなことをやり続けてきている高橋さん。
ギャラはいつもおひねり。
それで生計を立てているようだ。
「俺ボケたら1日中歌ってるんだろうな。あれ、今日まだ歌ってない。あ、今日まだライブしてない、ってなー。」
23時ころになるとゾロゾロと地元の人たちがやってきた。
春野町は茶の名産地。
春野茶振興協議会の会長、西道さんをはじめとする茶の鉄人たちだ。
さすが静岡。
「春野の茶が日本1よ!!はっはっは!!」
高橋さんが俺のことを話してくれ、流れで俺も4曲やらせてもらった。
「いやー、同じフォークっていってもやっぱり今風だね。メロディーもコードも。俺には作れないなぁ。」
高橋さんのご配慮でおひねりをいただくことができ、6000円ほどの思わぬ収入。
ありがたい。
それからも地元の人たちとお酒を飲み、日付が変わったらもう1度高橋さんのライブが始まった。
ああ、なるほど、日付が変わったから今歌ってる分は明日の分ってわけか。
つまり明日は歌わない日になるわけだけど、でもそれでも毎日連続ではあるよな。
宴も盛り上がり、今夜は高橋さんの家に泊めていただくことになった。
店を出て、気田の町から10キロ。
さらなる山奥に突入していく。
車1台ぎりぎり通れるような長いトンネルをくぐり、林道用のような橋をわたり、ようやくたどりついたのは山奥の20人くらいの集落だった。
一軒家の前に止まり車を降りると、川のせせらぎと森の匂い、光のまったくない山に降り注ぐ大量の星屑だけがそこにあった。
年6000円の家賃でここに住み、創作活動とライブに明け暮れる日々を送る高橋さん。
最初この集落に来た時は地元の人たちに白い目で見られていたらしいが、何年もかけて少しづつ仲良くなり、それぞれのお宅に遊びに行き風呂を貸してもらったり、ライブで行った色んな街の話をしてあげたりと、本当に日本昔話のような生活をしてきているようだ。
うん、結構憧れる。
山深い神秘的な里で農業して暮らす風景ってすごくいいよな。
「人前ですぐにやれるオリジナルは200曲くらいかな。これからもいい歌を作っていきたいね。」
むちゃくちゃ寒い居間で炬燵に入ってしばらく語り合い、そのまま炬燵で眠りについた。
明かりの消えた部屋の中、ぼんやりと考える。
歌うたいの人生とはどういう道をたどるのか。
またどうあるべきなのか。
60年代、新宿の西口で仲間たちとフォークソングを歌っていた高橋さんは、数十年後にここにいきついた。
俺はどこにいきつくんだろう。
翌日。
9時ころに目を覚まし、高橋さんと一緒に家を出た。
ゆうべは真っ暗でわからなかったが、目の前にものすごくのどかな山里の集落が広がっていた。
家から裏の坂をのぼり丘の上に行くと、木造の古びた校舎がある。
もう20~30年前に廃校になった小学校だ。
昔このあたりは林業が盛んで、ゆうべ来る時に通ったあの細いトンネルも、木材運搬用の鉄道トンネルだったらしい。
仕事もあり、人もけっこう住んでいた活気のある里だったが、今はすたれ、爺ちゃん婆ちゃんだけとなりやがて消え行く運命にある。
その名も勝坂。
400年の歴史を持つ神楽の伝わる里だ。
あー、なんて神秘的な地なんだろう。
気田の町まで降り、そこで高橋さんと別れた。
山の中で1人、ギターを抱いて生きる高橋さん。
素敵だけど、寂しそうだとも思ってしまう。
理想の孤独ってなんなんだろうな。
高橋さん、また鹿児島で会いましょう。
天狗の山、秋葉山は面倒だからのぼらずに、道路沿いから下社だけ見てそのまま浜松市内まで走った。
そして今日のメイン、YAMAHA本社工場へ向かう。
日本の楽器生産の9割を占める浜松市。
『YAMAHA』と『KAWAI』という2大メーカーの工場が町のいたるところにたくさん点在する。
その中で工場見学を行っているYAMAHAの本社工場に到着。
受付を済ませると、まずは館長さんによるYAMAHAの歴史の説明からスタート。
ていうか俺1人。
マンツーマン。
恐縮です。
YAMAHAが創業したのは1887年、明治20年。
あるところに山葉寅楠さんという医療機器の修理屋さんがいました。
ある日、手先が器用と評判の寅さんのところに浜松の小学校からオルガンを修理してくれという依頼がきました。
研究熱心な技術士の寅さん。
全然分野は違うものの見事オルガンを修理してあげます。
こりゃ楽器もなかなか面白いやんけー、というわけで寅さん本格的にオルガンの製作を開始。
ちゃくちゃくとクオリティーを上げていき、明治37年にはアメリカでの博覧会で賞を受賞。
大ブレイクし、ピアノを中心として、ハーモニカや木琴など多岐にわたる楽器製造を展開していく。
大戦中には軍兵器の生産もさせられたり、そのため空襲を受けたりもしたが、復興し、今や世界一位の楽器メーカーに成長したって流れだ。
その他の事業としてはバイクなどのモーターサイクル、半導体や電子機器、ゴルフ用品、自動車の内装、レジャー施設、住宅のキッチンやシステムバス、とまぁ改めてすごい会社なんだと知る。
それから上品そうな案内のお姉さんとマンをツーマンしながら工場見学。
グランドピアノが組み立てられていく工程を間近で見ながら歩いていく。
すげー……………
機械の大量生産かと思ってたけど、ほとんど手作業なんだな。
たまにでかい機械が動いていたりするけど、その機械もYAMAHA製だ。
組立の最後の工程『整音』では、羊の毛でできたハンマーフェルトに針を刺して、やわらかい温もりのある音に仕上げるのだというが、針の刺し方、刺す角度や深さで音色がまったく変わるらしく、きれいに整音できる職人はこの工場内に数人しかいないという。
んー、人間国宝級だな。
ちなみにピアノの弦の張力って20トンもあるんだって。
ちなみのちなみに『海の上のピアニスト』で、主人公がものすごいスピードでピアノを弾き、弾き終えて弦にタバコを押しつけて火をつけるというシーンがあるが、あれって可能なんですか?と聞いたら、あんなことはまずないですよと言われた。
んー、現実的なお言葉。
およそ2時間。
これだけ丁寧に案内してくださってももちろん無料。
お礼を言わないといけないところなのにお礼を言われて外に出た。
こういうオープンな会社作り、信用問題に力を入れていることが、時代を生き抜く企業のあり方だなぁ。
『最良、最強が生き残るのではない 変われるものが生き残る』
ダーウィン。
浜名湖に向かい、舘山寺温泉のひなびた温泉街を見て回り、大草山の展望台へ。
ものすごい強風でぶっ飛びそうになりつつも、湖を一望できるロケーションはなかなかのもんだった。
弁天島から湖西市に走り、一気に峠越え。
いや、ていうか、もう静岡県終わっちゃったよ。
9日で1県か。
うん、でもいいペースだ。
目ぼしいところはそれなりに回れてると思うし、全力で飛ばしてきたはず。
でも逆にこれだけ急いでも10日くらいはかかるのか。
これからも楽しい県、大きな県、島のある県などいっぱいあるし、山が多い県は雪が残っているので春まで後回しにしないといけない。
まだあと1年間もこのハイペースを維持し続けなければならないのか……………
モチベーション保たないとな。
まぁ、何はともあれひとまず順調だ!!
よっしゃ!!
愛知県スタート!!
【静岡県編】
完!!!!
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