2006年1月24日【関東出発】
行田には『フライ』という庶民の料理がある。
まぁお好み焼きみたいなものだが、ちゃんとフライという名前があり、しっかり区別された存在だ。
ならば元祖を食べてみることに。
ひとつのお店に的を絞り、マップを頼りに行田の商店街を行ったり来たりするが、どうしても地図上の位置にお店がない。
くそがあああ……………
地図間違ってるじゃねぇか……………
車を止めて住宅地の中をさまよっていると、ようやく小さな商店を発見。
これかよ……………
風景と同化しすぎててマジわからんかった…………
中に入ると、テーブルとイスがある。
テーブルと椅子?
とても料理を出す雰囲気には見えない。
が、一応メニューっぽい札が貼ってあるので、お婆ちゃんに玉子入り300円を注文。
慣れた手つきで小麦粉を焼いていくお婆ちゃん。
出来上がった質素なそれを食べると、うん、結構美味しい。
庶民の味って感じだ。
「ほら、そこの通りに根本歯科ってあったでしょ?あそこの末っ子がロックシンガーなんだよ。」
根本?
あー、スターダストレビューか。
気づけば店の中にたくさん根本さんの写真が飾ってあった。
この小さな町の英雄だな。
それからさきたまという地区の古墳群へ行ってみた。
堀に囲まれた前方後円墳やたくさんのこんもり古墳がちらばる公園内には家族連れがちらほら。
国宝の剣がここから出土したようで、隣の資料館に展示してある。
が、別にいいので先へ。
よっしゃ!!!
さぁ来た!!
久しぶりの酒蔵見学!!!
もういつぶりだろ蔵行くの!!!
とは言っても以前電話したときに蔵見は無理です、と断られているので、無理やりの強行突撃。
せめて蔵人さんにお話くらい伺いたい。
今日の蔵は関東の、いや日本のメインと言っても過言ではない酒飲みの間では伝説の蔵『神亀』。
常にはっきりとしたポリシーを持ち、今でこそちょくちょく見かけるようになった全量純米生産を日本で1番最初に取り入れた蔵だ。
神亀は頭がおかしくなったと周りの蔵元から非難を浴びながらも信じる酒造りを続け、今や時代の流れは完全に純米だし、神亀こそ最高の日本酒だという人も少なくない。
どんな蔵なんだろう。
閑静な住宅街にやってきた。
看板がない、という話は聞いていたんだけど、確かにこれじゃどこにあるのかまったくわからない。
かろうじて『神亀』と書いた小さな酒販店を発見。
中に入るとお爺ちゃんお婆ちゃんが忙しそうに動いている。
「すみません、神亀の蔵ってどこにあるんですか?」
「はい?目の前のそれですけど。」
え………?
隣の雑木林を指差すお婆ちゃん。
林の中にプレハブ小屋みたいのが見える。
……………えええええええ!!!
これが!?
これがかの有名な神亀の蔵!?!?!?
周りを一周してみたけど玄関らしい玄関がない。
ほんとに酒を造るためだけの建物。
マジかよ………………
とても中に入っていけるような雰囲気ではなくて、しょうがなく、酒販店に戻ってきた。
せめて何かしらの酒を買っていこうと酒を選んでいると、そこに蔵人らしき人がやってきた。
「はい、あー、少しだけならいいですよ。」
なんとかひっ捕まえて少しお話を伺うことができた。
「神亀のお酒はお燗するとびっくりしますよ。あの、すみません、今仕込み中なもんでそろそろ戻ります。」
ほとんど何も聞けないまま、蔵人さんは雑木林の方に走っていった。
くそ……………これだけか。
残念だが神亀の『ひこ孫』300ミリを購入。
こんないい酒を300ミリで出しているところがまた最高だな。
よし、これでだいたい埼玉のめぼしいところは回った。
もちろん不充分とえば不充分だが、欲を言えばきりがない。
こんなもんで次の目的地に向かうぞ。
車を飛ばしてやってきたのは東京都、青梅市。
青梅街道の宿場町の中心地で、道路沿いだけがやたらと賑わっている雰囲気はいかにも宿場の雰囲気だ。
町中に入っていくとやたらと目につく古い映画の看板。
住宅や店舗の壁、いたるところに『シェーン』や『第三の男』、『ある愛の詩』なんかの昔の手描き看板が飾ってある。
たしか北海道の夕張もこんな感じだったな。
町並みも古めかしく、昭和チックな面影があちこちに見られる。
交番かと思いきや、中には猫のお巡りさんがいたり、掲示板に貼られた指名手配の紙にはアニメキャラが写っていたり。
ユーモアいっぱいの町だ。
そんなレトロな町中には3つの博物館があり、3館共通券700円を購入して回ってみることに。
まずは赤塚不二夫会館。
赤塚さんがこの青梅の町を気に入ったことから縁が生まれたらしく、館内には赤塚マンガのキャラクターやグッズ、赤塚さんの人柄についてのパネルなどにど、かなり充実した内容が展示してあった。
青梅の昭和の町並みと、昭和の高度経済成長時代に笑いを与えた赤塚マンガとがよくマッチしている。
ホント、あの天才バカボンのシェー!!のポーズってすごいよな。
日本中知らない人いなかったし、当時の総理大臣まであのポーズをとったりしていたらしい。
他にも『秘密のアッコちゃん』、『モーレツあ太郎』、『おそ松くん』なんかでギャグマンガのキングと呼ばれ、昭和の活気に満ちた時代を描きつづけた。
今見ると、当時の子供たちがとても元気だったんだなという印象を受ける。
いいよなぁ、この時代。
鼻水たらして暗くなるまで外で遊んで。
膝すりむいて唾つけて走り回って。
今の子供たちは頭でっかちでゲームばっかりしているもんな。
2つ目が昭和レトロ商品博物館。
レトロな雑貨や日本酒の歴代のパッケージなんかが展示してあった。
最後に昭和幻燈館。
ここがよかった。
中にはまずどでかい映画看板が展示してあった。
青梅には数少ない映画看板師の1人、久保板観さんという人が住んでいる。
戦後、10代で映画館の専属絵師になり、ひたすら看板を描きまくっていた青年時代。
当時はたいした娯楽のなかった時代だ。
映画全盛期のころんなんて、あのでかい看板を1日に1枚という脅威のペースで狂ったように描きまくっていたという。
それが時代と共に映画人気も衰え、映画館が軒並み潰れ、映画看板絵師という仕事は絶滅した。
しかしその技術を後世に伝えるため、こうして町興しの一環として板観さんは映画看板を描きつづけている。
あの、役者さんに微妙に似てない絵。
あれがなんだかいいんだよな。
この幻燈館にはもう1つ面白いものがあった。
ジオラマの詩人といわれる山本高樹さんという方のジオラマだ。
昭和時代の古い町並みや民家、風景などをミニチュアで表現していて、今にも動き出しそうなリアルな物語性は、とてもノスタルジックでワクワクさせてくれるものばかり。
特に色街での人物の動き、表情からはその人形の人生を想像されられずにはいられない。
この遊女とオッサンの空気感、渋すぎるやろ。
このガード下の飲み屋と流しってのもカッコよすぎ。
めちゃくちゃ昭和。
当時の人の生活感すら漂っている。
俺も詩でこういう風景や臨場感を表現できるようになりたいな。
というわけで今日は青梅でストップ。
まだ風邪が微妙に残っている。
やばいなぁ。
木曜までには治したいんだが。
うー、それにしても寒い。
まだまだ寒い夜は続くなと思いながら寝袋に体を突っ込んだ
翌日。
青梅から奥多摩湖方面に走っていく。
車の窓から見えるのは渓流と萱葺き屋根という日本昔話の風景だ。
でもここの人たちもれっきとした、東京在住なんだよなぁ。
東京でもこんな場所があるんだってすごく意外だ。
標高が1000メートルもないが山岳信仰の山として史跡の残る御岳山は、ロープウェーを使わないと上には登れない山だ。
往復1000円。
しかも有料駐車場。
上には御師と呼ばれた神社と信者の仲介役をしていた人々の住宅などがあり、興味をそそられるものもあるようだが、残念ながらそんなに金に余裕がない。
先へ進むか。
しばらく走っていると、ダム湖である奥多摩湖が現れる。
湖沿いに山梨県との県境まで行くと、あまりの寒さに湖面が凍りついていた。
こんな山奥でももちろん『東京在住』。
山道をうねうねと進み、風張峠にやってきた。
山々の隙間から広大な関東平野が見わたせた。
向こうに広がっているのは日本一の大都会、東京の林立するビル郡だ。
んー、すごい景色。
峠を下ると数馬温泉地という場所があった。
600年の歴史があるという兜造り萱葺き屋根の巨大な住宅が点在している。
いいなぁと思いながら見て回っていると、ふとスピーカーから町内放送が流れた。
不審者から登下校の子供を守りましょう、声がのどかな集落に響く。
んー、歩いている爺ちゃん婆ちゃんたちの視線が痛い。
東京の山から降りてきて、しばらくしてあきる野市に入ると徐々に東京らしい街並みに変わっていき、福生市、昭島市、立川市、東村山市と走っていく。
東京西エリアは市が多すぎ!!
交通量も多く、道もこの上なく複雑だ。
東村山市なんて耳慣れない街にやってきたのは1つの目的地があったから。
住宅街の中にぽっかりと口を開けている門をくぐり、ある施設に入った。
多摩全生園だ。
全国に数ヵ所あるハンセン病の療養所であるこの施設。
富良野の中田さんちでハンセン病作家、北条民雄の本を読んでから、この病気についてもっと深く知りたいと思っていたのだ。
日本中の孤立した僻地に建てられたハンセン病療養所。
その中でもこの全生園はかなり規模が大きく、何よりハンセン病資料館というものが一般に公開されている。
車を降り、施設内を歩く。
ジオラマのように規則的に並ぶ平屋住宅。
碁盤状に水平・直角に通った道。
広い敷地は柵で囲われており、木々が繁り、畑がある。
グラウンドも整備されており、宗教地区には色んな宗教の祈祷所が固まっている。
やたらと静けさに包まれている園内。
家族なのだろうか、子供たちが走り回っているし、スカートの短い女子高生も歩いている。
病院というのはどこでもそうだろうが、この療養所の歴史がどんなものが多少知っているだけに、陰鬱な雰囲気を感じずにはいられない。
ハンセン病。
知らない人はまったく知らないと思う。
俺もこの前北海道で知った。
これはなぜかというとメディアの操作により耳に入ってこないから。
癩病は近代国家の恥と位置付けた国の政策で、情報は人目につかないように隔離された。
発症すると指や鼻などの体の端部が腐れ落ち、髪の毛が抜け、視力を失い、関節が変形したりと、そのあまりにも惨い症状から天に見放された天刑病とも呼ばれ、はるか昔から仏罰によるものだと恐れられてきた。
一度発症すると確実に死ぬといわれ、もし人にばれると忌まわしいということでその家族までもが村八分にされた。
そのため家族からは縁を切られ、追い出されて浮浪の身になる。
『もののけ姫』の中で鉄砲を作っていた包帯ぐるぐるの人たちがそうだろう。
身内から出たことを隠す為に、あいつは死んだといって葬式まであげたりしてたんだそうだ。
それだけ恐れられてきた病気だ。
明治に入ると隔離施設が療養所という形で作られ、国内の癩病者は有無を言わせず連れていかれる。
所内では家畜のような扱いを受け、断種までが施される。
一度ここに入ったら故郷には二度と帰れないという最終地だったわけだ。
人間が人間でなくなる。
そこまで思われていたこの病気。
しかし1943年。
特効薬プロミンの開発に始まり、どんどん良い薬が出来、1981年には完全に障害を残すことなく完治させることが可能になる。
医学の進歩により解析され、ほとんど感染することのない病気だということ、遺伝病ではないということ、発症しても完治するということが認められた。
よし、それじゃあ今までのような非人間扱いはやめてもらおうか、と国にお願いしたのだが、なんだかんだと延びに延びて、隔離政策などが含まれた悪魔の『癩予防法』が廃止されたのは、つい最近の1996年。
やっと廃止されたよー!!と安心はできない。
今でも人々のハンセン病に対する恐れは昔とほとんど変わっていない。
完治して社会復帰した人への差別は厳然と存在する。
そりゃそうだ、人間はただホクロがあるだけでもメタメタに人を馬鹿にする。
この人と関わってもし自分も体が変形してしまったら……………
その恐れが強い差別心を生む。
その差別を少しでも無くすために、しっかりハンセン病を知ってもらおうと作られたのが、ここ全生園にあるハンセン病資料館だ。
よーし、ちゃんと勉強するぞー………………
こっちだなーー…………………
はい、改修工事で休館中。
なんだよそれ………………
2005年9月から2007年2月まで閉まってるとのこと。
まだ1年以上あるじゃねぇか……………
結局ハンセン病についての深い知識を得ることはできなかったが、暗黒の療養所と呼ばれた園内の雰囲気を感じることはできた。
北条民雄が執筆をしていたという小さな建物も見学できたしな。
そして何の手続きもなく門をくぐって外へ出た。
もちろん消毒の薬液を吹きかけられることもなく。
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