8月16日 土曜日
【中国】 ラルンガルゴンパ
今も忘れたことはない。
ノルウェーの北極圏からずっと一緒に旅した相棒。
ヨーロッパの美しい町角で一緒にワインを飲み、中東とアフリカで現地人に一緒に髪や腕を乱暴に引っ張られ、アメリカという遊びの国で一緒にジャンクフードを食べ、南米の美しい遺跡をたくさん一緒に見て回った。
太平洋を渡りオセアニアに入り、ニュージーランドで故郷と同じフィヨルドを巡り、そしてついに最終ステージのアジアにたどり着いた。
あと少し、もう少しで旅も終わり、日本という北欧から遠く離れた国での穏やかな生活が待っていたというのに、その直前であいつはいなくなってしまった。
トロール、今ごろどこで何してる。
クアラルンプールのツインタワーの先っぽで街を眺めているのか。
それとも誰か他の旅人のバッグにくっついて、新しい旅をしているのか。
あまりに長い間一緒にいたので、未だにお前がバッグの横にいないことに違和感を覚えるよ。
世界中の美しい場所をともに見てきて、まだまだこれからもたくさん行くべき場所はあったのに。
トロール……悔しいよ。
今この目の前に広がる信じられないような絶景をお前と見たかった。
草原の丘に座って、お前を横に置いて。
チベットの風の美しさは、あのラップランドの風と同じように。
朝、ウェイウェイたち4人はラルンガルゴンパへと向かって出かけて行った。
俺は体のダルさと下痢の症状がひどくてなかなか起きられず、しばらく経ってからベッドを出た。
表の食堂で適当にご飯を食べ、ぶらぶらと町の中を歩いた。
過疎の進んだ田舎の小さな町といった雰囲気で、標高が4000mあり一気に冬の寒さになった。
冷たい風がタルチョの旗をバタバタと揺らしている。
野良犬と野良牛が水たまりのあぜ道を歩いていく。
向こうに見える金色の屋根の大きなお寺。
草原の丘がうねりながら静かに空に伸びている。
なんとも寂しげなこの町。
しかしさっきから興奮が止まらないのは人々の姿。
服装が完全にチベットのものへと変わったからだ。
モンゴルの遊牧民が着ていそうな、動物の羽毛がモコモコとついた分厚い上着。
丈夫そうなブーツ。
日本の着物に似たカラフルな衣装もある。
長いストレートの黒髪を三つ編みにし、頭にウエスタンハットをかぶっており、身体中に銀や石のアクセサリーをふんだんに身につけている。
紫外線が強いからか肌はよく焼けており、みんな頬が赤く染まっている。
逞しい顔つき、言語、今まで見たどの人種とも違う。
隔絶された山岳地帯で独自の文化を熟成させてきたチベット。
まさかこんなにもチベットに魅了されてしまうとはな。
乗り合いバンで7元、110円でラルンガルゴンパへと向かう。
何もない。
ただひたすらに草原と丘が広がり、ガタガタ道がのびている。
緑の海の中にタルチョの飾りつけがまるでサーカスの興行みたいだ。
ヤックの群れが静かに草をはんでいる。
やがてバンは小さな集落へと入り、そこから急な上り坂の谷間を登って行く。
谷になっているので周りからは見えないこの場所。
まさに隠れた秘密の地を少しずつ登っていくバン。
そして緑の丘の向こうにものすごい景色が広がっていた。
何千、何万という同じ形、同じ色の民家が谷の斜面に隙間なくびっしりと張り付いており、その中心に巨大な金色の寺院が鎮座していた。
なんだこりゃ…………
まるでおびただしい数の虫が大きな獲物に群がっているような、そんな風にさえ見える。
何もない高地に突如として現れるその異様すぎる町は、完全に想像の範疇を超えて、ファンタジーの世界だ。
ミニバンを降り、あまりの光景にポカーンと谷を埋め尽くすあずき色の家々を見上げる。
見事に色が統一されているのだが、町を歩いている人々を見てさらに驚いた。
人々の服も全てがあずき色なのだ。
服というか、これは袈裟。
歩いている人が全員、袈裟を着ている。
そう、このラルンガルゴンパは僧侶の町で、人々が仏道について学ぶ学院都市なのだ。
暮らしてる人たちが全員僧侶。
みんな袈裟をまとい、小脇に勉強道具のようなものを抱えて歩いている。
半端じゃねぇ。
この時代、この世にこんな場所が存在するのか。
小さなヨチヨチの子供から、今にも倒れそうな老人まで、みんながこの町で祈りを捧げる日々を送っている。
楽しそうに駆け回る子供もいるし、年ごろの女の子たちが商店でお買い物をしている。
どこにでもある日常の光景。
しかしこれが全員僧侶というから半端ない。
空気が薄くてハァハァと息をつきながら坂だらけの町の中を歩く。
無数の民家の隙間に小さな路地が張り巡らされており、洗濯場があり、玄関前には靴が並んでいる。
僧侶たちは牛乳パックを開いたような変わった帽子をかぶっており、手に持った数珠をジャラジャラと鳴らしている。
辻々にあるお堂の中では人々がチベット仏教の象徴である円柱をクルクルと回している。
ひたすらに、クルクルと円柱を回しながらおばちゃんたちが井戸端会議をしている。
あまりに常軌を逸した光景に目を疑ってしまうが、彼らの顔はいたってどこにでもいる普通の人のもの。
こんな生活をしているからってなにか達観したものが顔に現れているわけでもなく、お菓子を買って歌を歌って恋の話しでもしていそうな普通の人々だ。
きっと俺もやろうと思えばここの生活に馴染むことができるだろう。
でも怖すぎる。
町の頂上にある大きな寺院を過ぎ、丘の裏手を歩きながら行けるところまで歩いた。
空気が薄くてあまりにも苦しく何度も座り込み、草むらで下痢をしながらゆっくりと歩を進める。
丘の斜面には尋常じゃない量のタルチョが絡みつき、山肌を白く見せるほどに散乱していた。
もはやタルチョを踏まなければ歩けないほど。
背の低い草が生えて、その間をハァハァと登っていく。
ふと横を見るとおとぎ話みたいな草原のうねりとその中をのびる川の流れ。
壮大な山の連なりの中にポツリと小さな家が見えるが、どっからどう見てもファイナルファンタジーの村のマークだ。
あそこに入ると爺さんがいて、何か旅の重要な道筋を示してくれるような。
色んなものをなくして、色んなものを手に入れて、結局カバンの大きさはあまり変わらない。
なくしたという事実と、手に入れたという事実は確実に胸に降り積もり続けるのに。
この旅を終えたら、どんなものを手に入れるんだろう。
そして何をなくすんだろう。
どんどん忘れてしまうのかな。
風の中に捨ててしまうのかな。
丘の上に座り込んで、目の前の光景を眺める。
今自分がここにいることが、なんとなくぼやけてしまいそうなほどの現実味のない光景。
トロール、お前に見せたかった。
お前と最後まで旅したかった。
日本を見てもらいたかったよ。
東南アジアでは俺はろくな旅をしていなかった。お前に愛想尽かされるのも分かる。
でも今なら自信を持って言えるよ。
今俺はこんなにもドキドキして、最高の旅ができているよ。
生きてる感じがする。
くっきりと、生きてる感じがするんだ。