2005年 8月3日 【北海道一周】
朝、北海道屈指の名岬、チキウ岬にやってきた。
これはアイヌ語なのかな。
一般的には地球岬と呼ばれているが、正確にはチキウという。
ホエールウォッチングができることで知られており、北海道の景勝地ベスト1にも選ばれている素晴らしい眺めなんだけど、清々しいほど霧でなんも見えん!!!
悔しいので、近くにあった母恋というなんとも郷愁を誘う名前の駅で記念に切符を買った。
明治5年に開港し、本州との海路の要衝として栄えてきたここ室蘭。
明治25年には夕張鉄道が全通し、石炭輸出港として一気に発展。
鉄道の国有化に伴い、北海道炭鉱鉄道は国に路線を売却した金で、新日本製鐵、日本製鋼所を室蘭に建設。
新日鐵で製鉄して、日鋼で加工するというコンビネーションで、戦時中は軍事兵器の生産、戦後は高度経済成長を支え、鉄の町、室蘭として昭和40年代には人口18万人を超えていたという。
労働者のたくさんいるところには必ず遊郭がある。
幕西町の幕西遊郭街はその昔、北海道でも名だたる歓楽街で、日雇い仕事を求めてやってきた荒くれ者たちで24時間にぎわっていたらしい。
市内にある仏坂という坂は、今俺がいる住宅地の母恋と幕西遊郭街との中間にあり、
『行こか幕西、戻ろか母恋、ここが思案の仏坂』
と歌われるように、男たちは皆ここでカミさんをとるか遊女をとるか迷っていたんだって。
市内には現在もたくさんの工場があるが、稼動しているのは昔に比べ3分の1とかそんなレベルだという。
人口も10万人を切って、いたるところに廃墟が目立ち、古きよき時代を偲ばせる。
昭和30~50年代ってホント活気のあった時代だったんだろうなぁ。
高度成長、バブル、俺たちの親の代って聞けば聞くほど楽しかったんだろうなって思う。
ロックも全盛だったしな。
ちなみに室蘭の焼き鳥は、なぜか豚肉。
昔は鳥よりも豚の方が手に入りやすかったって理由から今も続いてるんだって。
と、鉄の歴史を学んだところで室蘭を出発。
次にやってきた伊達市は、その名の通り仙台伊達家の末裔、伊達邦成が明治維新を期に、屯田兵のような形で北方警備を兼ね蝦夷地に入植して作り上げた町。
武士団2800名による一大入植だったという。
会津藩にしてもそうだけど、輝かしい希望を持っての入植みたいにいつも書かれてあるが、ほんとはそうじゃないよな。
戊辰戦争で旧幕府軍として戦い、敗戦したことでろくな扱いをされずに左遷みたいな形で蝦夷地に飛ばされたんだろう。
武士として誇り高く生きてきた人たちが、ロシアの侵攻を防ぐ北方警備という名目でジャングルの開拓に行かされたんだ。
ちょんまげを切り、厳しい自然の中で土をいじりながら屈辱に耐えてたことだろう。
今の美しい北海道はそうした先人たちの苦難の歴史の上にある。
そう思いながら走っていると、また違う見方ができるってもんだ。
有珠町にある善光寺へ。
1200年前、慈覚大師円仁がこの地で阿弥陀如来の像を彫り、安置したのが起こりで、建造物は1804年に徳川11代家斉が造ったもので、天災をまぬがれ修復のみで200年前の姿を今に残している。
森の中にひっそりと佇む萱葺き屋根のお堂。
その周囲には古木が立ち並び、中でも岩の間から伸びている石割桜は、開花時にはきっと見事なものなんだろうな。
さてさて、ここら辺でちょっと気になっているお菓子があるという情報を聞いている。
なんでもかなり恥ずかしい感じのお菓子らしい。
豊浦のパーキングエリアで地元のおばさんに質問してみた。
「あのー、ここらにおかしなまんじゅうがあるって聞いたんですけど。」
「あー、だんべモチだべ。私の親戚が作ってたんだぁ。」
一撃で作ってる人の身内ビンゴという奇跡!!!
偶然すぎ!!!
先日ヒッチハイクしたときに聞いていたこのまんじゅう。
なんと、あろうことか女性器をモチーフにしているんだそう。
話では10年間くらい町の名物として親しまれてきたが、事情があって去年に作るのをやめてしまったんだという。
真ん中に線の入っただんベモチ。
3種類あって、処女まんじゅうは中の餡がピンク色というこだわりようだったらしい。
ただの変態やん…………
長万部から日本海側へ抜け、島牧村へ。
道の駅のおばさんの情報によると宮内温泉のさらに山奥に、地図にも載っていない地元の人くらいしか知らない隠れ温泉があるという。
早速行ってみることに。
朝からの雨は次第に強さを増しており、暴風も加わり嵐のような荒れ模様になっている。
そんな悪天候の山道をズンズン奥へ入っていくと、むかつくことに工事中で通行止め。
いや、絶対見てやる。
こんなことで諦めん。
ファントムを止め、車を降りて傘をさす。
暴風によろめきながらゲートを乗り越え、ここからはひたすら歩きだ。
誰もいない山の中、工事中の道路の真ん中をポツポツ歩いていく。
橋から下を覗くと、茶色く泥をはらんだ激流がうねっている。
しばらくすると、トンネルが見えてきた。
山がぽっかりと真っ黒な口を開けて、その中に道が続いている。
まだ工事中の道なもんだから電灯が点いてねぇ上に看板を見ると長さが1キロもありやがる。
真っ暗闇のトンネルを1キロも歩くのはさすがに怖すぎる…………
しぶしぶそこで引き返した。
相変わらず暴風雨は森を歪ませている。
温泉見たかったなぁ…………
千走からまた山に入り、今度は百名瀑の賀老の滝を目指した。
駐車場に車を止め、そこからまた暴風雨の森の中を700メートルも歩かないといけない。
霧がかかってるし草木が道を塞いでるし、とんでもねぇところだと思っていると、お、聞こえてきたぞ、滝の轟音だ。
森を抜け、氾濫する川に出た。
ごうごうと荒れ狂う激流の上流を眺めた。
うおおおおお!!!
木々の向こう、霧の中にすさまじい水しぶきを上げている巨大な滝を発見した。
こいつはすげえ…………
やっぱり百名瀑にはずれはないな。
闇に包まれる寸前の碧の中、海岸線をとばす。
ゴツゴツした岩場の道。
ここらに道を通すのは大変な難工事だったろうな。
今日の最後の目的地、瀬棚町に到着したころにはすっかり夜になっていた。
真っ暗な海にライトアップされてそびえたつ3本の巨岩は、三本杉岩という。
明日ここからフェリーに乗り、北海道最後の離島、奥尻島に渡る。
情報収集のためそこら辺の商店に入ってお店の人に話しかけてみた。
「あー、別に何もないべよ。まぁ、行くならうちの駐車場に車止めてったらいいべ。」
北海道の人は親切な方ばかりだ。
翌朝。
瀬棚のポスター。
女の人、体張りすぎ。
さてさて、9時半だったかな。
片道1500円のフェリーに乗りこみ、どんよりした天気の中、奥尻島に降り立った。
時刻は11時。
不便極まりないことに瀬棚に戻るフェリーの最終便は12時40分。
それを逃したら野宿確定。
こんな短時間で全部回れるわけねぇ。
が、いつもの『まぁなんとかなるだろう。』スピリットでヒッチ開始。
島最大の名所は鍋釣岩。
不思議な形をした岩だなぁ。
まさに地球の取っ手だ。
ヒッチで乗せてくれた老夫婦さんに時間がないんですというと、島の南端、青苗までぶっ飛ばしてくれた。
そして南端にある津波記念館へ。
南西沖地震という言葉は聞いたことがあったけど、この島がその被災地だったとは初めて知った。
地震による津波にも襲われたらしいのだが、詳しく調べようと受付で600円払って入館。
「はい、お釣り400円ねー。お兄ちゃん今日の泊まりは?え?次のフェリーで帰る?だめだめ!!絶対間に合わねーから!!ヒッチハイク!?余計ダメだべー!!高橋さん!このお兄ちゃん送っていって!!」
「はいよー。」
え!!
ちょ!!まだなんも見てねぇし!!!
せ、せめて600円!!!
600円んんんんんんんん!!!!
親切な皆さんにそんなこと言えず、おじさんの車に乗って港にとんぼ返り。
600円返して…………
しかしまぁ、その車の中でおじさんに色んなお話を聞かせていただけた。
地震が起きたのは1993年7月。
地震自体はたいしたことなかったが、間髪入れずに襲ってきた津波は高さ18メートル、部分的には36メートルにも達し、時速600キロという猛スピードで青苗に押し寄せ、438棟が全壊するという被害をもたらした。
しかし、そんな大災害にもかかわらず島を離れる人はほとんどおらず、みんなで力を合わせて復興し、今ではかつての穏やかな生活を取り戻しているという。
海岸には防波堤としては最大級、日本に2ヵ所しかない11メートルのコンクリの壁がそそり立っている。
名物のウニは毎朝もぐって獲っている新鮮なもので、若い元気な人だと60キロ近く獲ってくるらしい。
んー、食べたいけど高いからムリだ。
結局おじさんとおしゃべりしただけで一瞬で奥尻島バイバイ。
よく調べたら江差のほうからも奥尻行きのフェリーは出ており、そっちに乗ってたら5時間は島に滞在できてたみたいだった。
ちきしょー、ミスった。
仕方なくファントムを走らせ、大成町の臼別温泉へ。
砂利道を山の中に入っていくと、森の中にちょこんと共同風呂が現れる。
もち露天。
ここはかなりよかった。
この後、道南の有名温泉、鉛川温泉のおぼこ荘にも行った。
道南の温泉は旅好きにはたまらないワイルドさがある。
温泉サイコー!!
リアルタイムの双子との日常はこちらから