2005年 6月8日 【北海道一周】
アラームの音で目が覚めると、窓の外が薄明るかった。
時計を見るとまだ4時30分。
ここは狩勝峠。
寝ぼけながら車のドアを開けて外に出ると、そこは不思議な水の中みたいだった。
ビュウウウウウ!!と強風が吹いているんだけど、その風にうねりながら霧が動いている。
風の形がはっきりわかって、霧がまるで吹雪みたいだ。
よろめきながら展望所に立った瞬間、マジで震え上がった。
眼下に広がる見渡す限りの雲の海。
島のように浮かぶ山の頂。
これって、まさか雲海…………?
写真でしか見たことのなかったあの神秘の雲海に一度は遭遇したいと前々から思っていたんだけど、まさか富良野からの再スタートの初日にこんな立派な雲海に出会えるなんて。
こりゃ幸先いい。
しばらくの間うねる霧を眺めていたんだけど、風が強すぎて、寒い寒い!!と急いで車に乗りこんだ。
こんな時間に動いてもまだどこも何もやっていないのでもう一度布団に潜り込む。
次に起きた時には、雲海は太陽にかき消されて、どこまでも広がる緑の森が姿を現していた。
ファントムのエンジンをかけてアクセルを踏み込む。
もうすでにほぼ1年北海道にいるっていうのに、まだ行ってない場所いくらでもあるからな。
これからガッツリ北海道一周して、隅から隅まで見てまわってやるぞ。
早速峠を降り、38号線を走り御影駅から裏道へ入った。
広大な畑の中をトコトコと走っていく。
新緑と空の青、畑の中にわずかに動くゴマ粒のような人の姿。
防風林の規則的な並び。
絶え間なくよそ見をしているのは何事も見逃さないため。
早く旅の勘を取り戻さないと。
まずは1発目にやってきたのは幸福駅。
昭和48年にNHKの番組で放送されたことにより一大ブームを巻き起こした『愛の国から幸福へ』。
ここがその舞台だ。
俺がまだ中学生の頃、実家の小物入れを漁っているときに古めかしい切符が出てきた。
その切符には『愛国→幸福行き』という文字が書いてあり、お父さんに聞くと、そういう駅があるんだよ、と教えられたのをうっすら覚えている。
変わった名前の駅だなーと思って、なんとなく気に入ってそれを自分の机の引き出しにしまっていたんだけど、実際にどこにあるかなんて興味もなかったし、その駅の存在を知ってからも、まさか自分で行くことになるなんて夢にも思っていなかった。
車を停め、駅に向かって歩く。
俺の左手の中には、あの切符。
親父が若かりし頃、旅の中で買った『S48、11、3』の日付の入ったあの切符。
ここか…………
30年前、ここに親父が来たんだ。
当時のままという駅舎とプラットホーム。
駅舎の壁は訪れた人々の名刺で埋め尽くされている。
正面の土産物屋さんへ。
「すみません、この切符と同じものありますか?」
「おー、兄ちゃんどこから?兄ちゃん彼女は?なーんで連れて来ないんだぁ。この切符はまず彼女に渡してだなぁ、そんで兄ちゃんが改札をくぐるまで持っててくれ、って言うもんなんだぁ。その先にあるのが幸福なんだからなー。どうだ、おじさんうまいこと言うべ?」
「いや、これは親父が…………」
「なんだー、お父さんにか。今健康で幸福でいられるのは両親のおかげなんだから…………」
人の話を一切聞かずに謎の幸福論をまくしたてるおじさん。
ここを訪れるカップルたちにひたすら何十年もこうやって同じ話を語っているようで、正直なかなかウザい。
さらに、そうしたカップルたちがおじさん宛に結婚しましたの葉書を送ってきていて、そのハガキを自慢げに見せられるからさらにウザい。
まぁようやく220円の『H17、6、8』の切符をゲット。
「これは親父から受け継いだものだろ?だったら今度は兄ちゃんが子供出来たときにこの2枚をその子に託すんだぞ。それがその子の幸福にうんたらかんたら………」
もちろんそうします…………
おじさんお元気で!!
田中義剛の花畑牧場は入場料900円もするから無視。
上札内から山に入り、札内川上流に現れるのがピョウタンの滝。
まだこの辺りの民家がランタンで暮らしていた時代、水力で電気を作ろうと築いた堤防がわずか3年で川の氾濫により決壊。
もう周辺に民家はないが、この堤防の面影を残した人工の滝は、北海道の開拓精神を感じさせる遺産だ。
大樹、広尾と、数々の寂しげな集落を通り過ぎ、やがて目の前に太平洋がひらけた。
久しぶりの潮の香りの中、十勝港を見てまわる。
『不法入国禁止!!』
の看板が目に付く。
確かに狙われやすそうな寂しげな港だ。
断崖絶壁が海沿いにどこまでも続く黄金道路をひたすら南下。
新しいトンネルの横に、朽ち果てた古いトンネルがいくつも取り残されている。
波風が強く荒々しい地形のため、新しい道を造るのに膨大な金額が費やされたことに由来して黄金道路と呼ばれているんだそうだ。
霧が出てきて、寂しげな雰囲気がより一層最果てというイメージをかきたてる。
茶色い枯草に覆われた丘陵地帯。
玄関を出れば波打ち際、ってほど海沿いに並ぶ家々。
そんな寂しげな風景の中、とうとう襟裳岬に到着した。
こ、これが襟裳岬かあああああ!!!!
ってなんも見えねぇえええええええええ!!!
霧がすごすぎて手すりから先、真っ白。
日高山脈の連なりが少しずつ標高を下げ、海に沈んでいくその先端がこの襟裳岬。
2キロくらい先まで岩礁が続いていて、1番向こうの岩にはゼニゴマアザラシってやつらがごろんごろん転がっているらしいのだが、もちろん何も見えない。
スピーカーから聞こえてくる森進一の『襟裳岬』延々リピートがあまりにも切ない…………
誰もいないし、せっかくなのでなんか面白い写真撮ろうと1人で何度もセルフタイマーダッシュしてみたんだけど、めっちゃ切ない…………
襟裳の春は何もない春です…………
えりもの町を通り抜け、海沿いの道をどこまでも走っていく。
陽も沈み、どっかこの辺で寝ようかなーと走っていると、ふと道の脇の電光掲示板に『ワンドリンク付き』という文字が見えた。
ん?今のなんだ?
すかさずUターンすると、周りに何もない暗がりに1軒のログハウスがあった。
よく見ると看板に『生演奏』の文字。
やっぱりな。
「こんばんはー。」
「あー、今日休みなんですよー。」
マスターらしき人がそう言った。
店の隅にはステージと楽器。
「ほんとですか………聴きたかったな。」
「んー、そうですか……………………まぁいいですよ。入ってください。」
やったぜ!!
とりあえず昨日の夕方に茶碗くらいのうどんをすすってから何も食べてなかったので腹ごしらえにカレーを注文。
食べてる間に拓郎フリークというマスターが打ち込みに合わせて『落陽』と『もう1つの土曜日』を演奏してくれた。
俺も歌うことになり、せっかくなので『落陽』をやった。
「いいねぇ!!気に入った!!タクロー!!コーヒー持ってきてくれ!!」
さすがは拓郎フリーク。
息子の名前もタクローだ。
この『馬っ仔ハウス』は軽食喫茶兼ライダーハウス。
今夜も1人女の人が泊まっていて、彼女も加わってお喋りした。
彼女は四国からやってきている障害物レースのジョッキーさん。
この日高はサラブレッドの産地なので本場で修業するためにこっちに移住しにやってきたとこだという。
「いやー、色んなやつが来るよ。金ないやつには薪割りとか草刈りとかやらして泊まらせてやったりさ。下手クソだけどギター持って旅してるやつとか。面白いよ。」
ライダーハウスってのは北海道に昔からある伝統的な宿泊施設。
俺たちの親父の世代くらいに、バイクで北海道をツーリングするのが流行ったみたいで、大地をトコトコトコトコトコトコ走るところからカニ族って呼ばれてたんだそうだ。
そういう金のないライダーたちを1000円とかの格安料金で泊めていたのがライダーハウスで、どこも個性的な人たちが集まる空間だ。
今の時代でも、30年前にカニ族だったおじさんが、仕事を定年して当時の旅をしようとバイクにまたがり、北海道にやってきてこうしたライダーハウスに泊まっている。
年季の入ったライダーさんたちが若いライダーたちに、俺たちの時代はなぁ!!とバイク旅のなんたるかを語りまくってウザがられてるという構図がライダーハウスあるあるだ。
「あ、そういえば利尻のなんとかってユースでは、毎日夕方になると泊まってる奴ら集めて夕日に向かって『落陽』歌うらしいぞ。兄ちゃん行ったら喜ばれるぞー。」
んー、ナイスな情報ゲット。
やっぱり地元の人と話さないと旅の情報は手に入らないよな。
それからもワイワイ話し込み、気が付けばもう0時を過ぎていた。
「俺はまともに仕事始めたのは30歳すぎてからだからな。兄ちゃんも焦らないでやりたいこと残らずやってしまいなよ。」
別れを告げ、外に出て車を走らせる。
初日からこんないい出会いがあるなんてな。
まったく幸先がいい。
北海道は出会いの宝庫だ。
翌日は新冠町の道の駅で目を覚ました。
レ・コード館といって60万枚ものレコードをものすごく高価な機材で聴くことができるという施設があるようだが、まぁそこは遠慮して、道の駅で情報収集をしていると面白いチラシを発見した。
『遊○仙人ライダーハウス、宿泊千円、主も旅人なのでいないときは勝手に泊まっていってください。』
おいおい、熱いなこれ。
しかもこの近く。
行くしかねぇ。
古ぼけた集落の中を走り、どこかなーとキョロキョロしていると、それらしき建物を見つけた。
建物というか小さなガレージ。
おそるおそる中に入ると2階が広間になっており、何組かの布団がたたんである。
仙人はおらず、ライダーもちょうど今日は誰も泊まっていないようだった。
壁中にライダーのメッセージが書き殴ってあり、雑記帳が何冊も積み上がっている。
『今年で3年目。また来ちゃいました!!』
『仙人とお話できてなんか吹っ切れました。』
『俺の人生ブレーキなし!!』
若い旅人たちの、若いメッセージ。
んー、沖縄を思い出すこのノリ。
ここでたくさんの旅人たちが出会い、旅話を語り合っているんだろうな。
そうそう、雑記帳の中にこんなメモもあった。
『募金箱に10万入れたの僕です。』
ここでの募金は全てユニセフに寄付されてるらしい。
こんなイカす場所が北海道にはいくつもあるんだろうな。
その中のひとつに、富良野の旅人バスもなっていけたらいいな。
どこもかしこも馬だらけの牧場地帯を走りぬけ、平取町というところにやってきた。
この町は義経伝説の残る町らしく、義経神社なるものに行ってみた。
つつじの咲き誇る境内。
北海道にして歴史のありそうな神社だ。
義経といえば牛若丸。
源平合戦で大活躍したものの、あんまり周りから人気があるもんだから兄貴の頼朝が嫉妬して勘当。
奥州藤原氏のところに身を寄せるが裏切られてそこで死ぬ。
弁慶の立ち往生も有名な話だ。
とまぁ、これが一般的な史実。
でもそこで死んだのは影武者で本物は生き延びたって説も結構有力だ。
生き延びた義経はそのまま東北を北上し蝦夷地に渡り、この平取にやってきてアイヌの人たちに武術や農作業を教えたりした後で、若者を引き連れ大陸に渡り、アジアの大半を征服したジンギスカンになったという。
その北上経路に沿って義経ゆかりの名所が数多く存在するもんだから信憑性も高い。
神社が建立されたのが1798年。
この平取では特にアイヌの人たちから信仰を集めている。
次に二風谷。
ここはかつてたくさんのアイヌが暮らしていたところで、アイヌの資料館や土産物屋がある。
ここの資料館はかなり勉強になった。
イヤイライケレー…………ありがとう
イランカラプテー…………こんにちは
何言ってるか1つもわからんアイヌ語や歴史、気になっていた叙事詩『ユカラ』も聞くことが出来た。
『ユカラ』とはアイヌの昔話を歌に乗せて語るもので、書いて覚えるのではなく、代々口伝のみで伝わってきたものだから語り手によって内容が違うらしい。
長い話は語り尽すのに何日もかかる膨大さというからすごい。
途切れてしまった伝統が、この地球上にどれほど存在するんだろうな。
外の土産物屋さんを覗いてみると、例のアイヌの木彫り彫刻がたくさん販売してあった。
あの爺ちゃんの家の玄関とかにあるやつ。
熊がシャケとってるやつ。
現在は指折りで数えられるくらいに減少したアイヌ彫刻師さんの1人がいたのでお話を伺った。
「アイヌ文様ってのがあってね、これを基調にして自分のアレンジを加えて作品を作っていくんだよ。昔みたいに作れば何でも売れるって時代じゃなくなったからね。今、土産物屋に並んでる熊の置物は、ほとんどが東南アジアで機械で作ったもんだから。でも…………僕もやっぱり熊彫るけどね。」
やっぱりあの熊は定番なんだね。
荷負から山に入り、奥地にあるスズランの群生地を見るべく、ものすごく細い木が生い茂った山道を進んでいく。
こんな山奥、冬には完全に雪に閉ざされるんだろうな。
残念なことに昨日までスズラン祭りなるものをやっていたらしく、駐車場のあちこちにノボリが立っていた。
んー、どこが群生地なんだろう?と歩いていくと……………
実は足元が全部スズランだった。
葉っぱが大きいので白い花は隠れてしまうが、かがんで見てみると可愛らしいまさに鈴のような花がチョコチョコとぶらさがっている。
きれいだなぁ。
こんな山奥の花の群生まで人間は名所にするんだな。
さらにすっごい山道を抜けて黒糖小中学校の前に抜け、日高の道の駅にたどり着いたころにはもう薄暗くなっていた。
静かな駐車場で日記を書いていると、いきなり樹海にものすごい爆音が響いた。
な、な、な、なんだなんだぁ!!??
車を降りて歩いていくと駐車場の中に人だかりができている。
何やら派手なハッピを着込んだ人たちが威勢のいい掛け声をだして激しく踊っていた。
あ、これって、なるほど、ヨサコイの練習か。
近く札幌でヨサコイ祭りがあるって情報をゲットしている。
上手くタイミング合わせて見に行くぞ。
うー、それにしても体中がベトベトする。
風呂に入りたい。
でも我慢だ。
今日1食目のカップラーメンを食べて日記を書いた。
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