2006年3月28日 【岐阜県】
織部、黒織部、黄瀬戸、志野。
これらの名器は尾張の瀬戸で焼かれていたのだろうと思われていたのがかつての焼き物の世界の定説だった。
しかし、時は昭和の始め、ある男が美濃の多治見で桃山時代の志野焼きの窯を発見。
それにより長年の謎が次々と解明されていき、この美濃でも昔々に織部や黄瀬戸が焼かれていたことがわかった。
つまり途中で歴史が寸断してしまって、当時の技術を伝承していた者は1人もいなくなっていたということ。
美濃の焼き物はそこから始まった。
土岐市を中心に瑞浪市、多治見市に500以上もの窯が散らばる焼き物の一大生産地、美濃。
無数にある博物館や販売所の中からまず向かったのは『美濃焼伝統産業会館』。
200円払って入館すると、伝統工芸士のものから若手の作品まで所狭しと並んでおり、かなり見ごたえがある。
産業会館から奥は山道になっているのだが、その一帯は陶芸村と呼ばれており、個性豊かな13の窯元が点在している。
ぶらぶら歩き、道のどんづまりにある『青蓮舎』を覗いてみた。
アート全般を手がけているようで、アーティスト用の合宿ロッジも備わっている。
焼き物も生活用のものではなく立体アートのオブジェ的なものが多かった。
次に見学させてもらったのは窯元『子の日窯』。
この道40年というご主人の大島さんに面白いお話をたくさん聞かせていただいた。
酸化の炎、還元の炎、炎の濃さ、織部焼の性格などなど。
桃山時代の貴重な志野焼きの陶片まで見せていただくことができた。
「よし、ほら、こっから好きなもの選べ。」
帰り際にグイ呑みを1つ持たせてくれたご主人。
頑固そうだけどやさしい大島さん、ありがとうございました。
あぁ、明日で岐阜県も終了か。
この県でも色々行ったけど、もうひとつ、必ず行こうと思っていた場所がある。
ここだけは絶対見逃せないと、岐阜県最後の夜にドキドキしながら車を走らせる。
岐阜市内に入り、JR岐阜駅の南口に回る。
ちらほらとネオン看板が見える裏通りに入ると、そこに広がっていたのは……………
そう!!
東海のパラダイス!!
日本一の風俗街と名高い金津園!!!!
………………んー、でも………………なんか想像より地味な通りだな。
普通のコンクリの古びたオフィスビル街みたいな雰囲気。
これなら群馬の太田の方がはるかにすごいかったよ。
でも呼び込みさんの強引さはハンパじゃない。
横に立って声かけてくるとかそんなレベルじゃない。
車で通ったんだけど、マジで当たり屋か?ってくらい車の前に飛び出してきて余裕で轢き殺しそうになる。
圧が凄すぎる。
風俗街まできて店に入らないなんて男のすたる話だが、もちろん俺にはそんな金はない。
とっとと帰ろうと車を降りデジカメで通りの写真を撮っていると、黒ずくめの兄さんが近づいてきて怖い顔で声をかけてきた。
「兄さん、撮影許可は?」
「…………え?ないですけど…………」
「まずいよ、勝手に撮っちゃ。」
「ただの風景写真ですけど……………」
「ネットとかに載せたらまずいことになるよ。」
あまりに怖くてソッコーで車に戻ってそのまま逃げた。
金津園こえええ…………
でもアンダーグラウンドエリアってのはどうしても惹きつけられる魅力がある。
隠される人間の日陰の部分にこそ、人間の美しさや哀しさがある。
もっともっと人間のドロドロした深いところを覗き込んでいきたいな。
翌日。
「東京は桜満開でーす!!」
とラジオの向こうでパーソナリティが騒いでるというのに、フロントガラスは雪まみれ。
そんな季節感のない寒空の下、アクセルを踏む。
向かったのはどっかで聞いたことのある名前、養老の滝だ。
その昔、奈良に朝廷のあった時代、あるところに体調の悪い親父を養う孝行息子がいました。
ある日、その孝行息子、山仕事の途中でうっかり足を滑らせて崖から落ち気を失ってしまう。
目を覚ますと目の前に滝が。
水を口に含むと…………なんと、滝の水が酒。
しかもすごく美味い。
酒好きの親父には日々の糧で精一杯で、最近酒を飲ませてあげられていない。
親父に飲ませてあげたい!!
急いで汲んで家に帰って飲ませてやると、病に伏していた親父がたちまち元気になった。
こいつはすごい!!
噂はたちまち都に届き、時の天生天皇がこの地に赴き滝の水を飲んだところ、これまた元気になり、そして若返った。
これは若返りの水だ!!ということでこの水を養老の水と呼ぶようになり、養老の滝のお話が出来たんだそうな。
子供は親を敬いましょう。
親はそれがただの水だったとしても息子を喜ばすために騙された振りをして「おぉ!!なんて美味い酒だ!!」と気遣いましょう。
そんなもんだ。
子供が親を殺したり、親が子供を殺したりする現代。
昔だってもちろんあったことだろうけど、少しでもそういう悲しい事件が減ることを願います。
というわけで俺も酒が好きだ。
観光地となっている遊歩道を歩き、養老の滝のすぐ近くに湧く問題の湧水を飲んでみた。
こ、これが伝説の酒の湧き水………!!!!!
うんうん、酒だよね。
車に戻って北上し、国道21号線で関ヶ原町にやってきた。
地名に『関』がつく場所はどこもそうであるように、この関ヶ原も中山道の関所のあった場所。
昔から大変な検査があったんだろうな。
ちなみに賀のつく地名は忍者の里という説があるんだそうだ。
伊賀とか、甲賀とか、加賀とか。
まぁそんなことよりここの最大の見所は、地名の通り、なんといっても天下分け目の関ヶ原の古戦場。
1600年9月15日の大戦の足跡をたどるべく、みぞれまじりの雪が横殴りに吹きつける中、関ヶ原に入る。
まず最初に国道沿いにある桃配山に来てみた。
672年に起きた壬申の乱で、大海人皇子がこの地に布陣し、兵のみんなに桃を配り、気合入れていこうぜと軍の志気を上げまくったという故事にちなみ、徳川家康はこの地に最初に陣を構えた。
うーん、いつの時代にも歴史というものは必ずあるんだよなー。
そんな天下分け目の関ヶ原の合戦。
そもそもなぜ天下分け目なのか。
それは現代に続く日本の文化の礎となった徳川幕府がこの戦により誕生したから。
ではその経緯をおさらい。
みんな学校の社会の勉強覚えてる?
1598年、太閤豊臣秀吉が逝去。
子煩悩だった秀吉は死に際、
「秀頼のこと頼むよ…………頼む……………家康、もうホント頼むわ……………マジで……………」
と、しつこいほど自分の息子のことを心配しながら逝った。
その後は五大老が秀頼を盛り立て、豊臣政権を継続していく。
しかし五大老の1人、前田利家が死んだことにより家康は露骨に天下獲りの動きを見せ始める。
おいおい、何ナメたことしてやがるんだ?と怒るのは五大老の1人、石田三成。
あいつ調子乗ってるからやっちゃおうぜと周りに声をかける。
「なぁ、家康のやつやっちゃおうぜ。」
「いや、ていうか俺あんたのこと嫌い。」
「…………はい?」
知略派だった三成。
実は同じ豊臣政権の中でも武闘派のみんなには頭でっかち野郎と嫌われていた。
次々と徳川についていく武闘派の武将たち。
あーそうですか、そういうことですか、上等じゃねぇかと三成。
徳川方についたのは東日本の武将が多かったため東軍、石田三成方が西軍となり、かくして戦の始まり始まりだ。
一進一退、わずかに西軍が押しているか。
イケイケムードの石田三成。
このままヨユーで勝っちゃうぜー。
と、その時。
かねてから家康に調略されていた西軍・小早川秀秋がここぞというところで裏切りアタック!!
虚をつかれた西軍、あっという間に総崩れ。
これが決め手となってわずか半日で雌雄は決した。
この瞬間、15代260年間に渡り続く神君家康公の時代が到来した。
西軍に荷担した大名の415万石は全て没収。
戦の働きに応じて配置がえが行われる。
裏切りという戦のキーマンを演じた小早川秀秋は、備前美作51万石の大大名となったものの2年後に原因不明の狂死。
罪悪感は人間を食いつぶす。
というわけで話は現代に戻り、西軍の石田光成本陣跡を見て回る。
そして近くの田んぼの中に建っている最終決戦の地の石碑へ。
こうして一通り回ってみると、戦の流れや思惑の流動、果ては緊張感までが伝わってくる。
ここで何十万人もの人間が殺し合い?
どんなにきれい事を並べても今も昔もそれが人間の本来の姿なんだろな。
関ヶ原の合戦場を見て回って、これにて岐阜県終了だ。
雪が降りしきる国道21号線で滋賀県突入。
岐阜はたくさんの出会いに恵まれた県だったなぁ。
自然満ちた山あり、コンクリートの大都会あり、温泉、歴史。
ホント、旅情に溢れた土地だった。
ていうか美香……………
………………さぁ、次だ次だ!!!
次行くぞ!!!!
【岐阜県編】
完!!!!
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