2005年 10月 【関東後半】
早いところ先に進みたいんだけど、まだ東京でやることがちょくちょくあるので、ここ最近は光ちゃんの家を拠点にして、近郊の町に歌いに行くという日々が続いている。
今週末はどこにしようかなーと日本地図を睨みつけ、ちょっと足を伸ばして小田原辺りに歌いに行くことにした。
張り切って元住吉を出発したものの、国道1号線はすごい渋滞。
その渋滞の隙間をパトカーや救急車がサイレンを鳴らしてカッ飛んで行く。
横浜で強盗事件があって人が刺されたとラジオがつげていた。
交通量の多い道をボチボチ走り、いくつもの有名な街を通り過ぎ、暗くなったころにようやく小田原に到着した。
まぁまぁの都会で、駅もそれなりに大きく、ギター弾いて歌っているのも何組か見える。
しかし、いくら探し回ってみても小田原には繁華街らしい繁華街が見当たらなかった。
駅周辺にカラオケ屋や白木屋とかの大きなお店があるくらいで、ネオン街がない。
駅から少し離れたところにそれっぽいのはあったもののタクシーも通らないようなさびれっぷり。
うわああああ…………こりゃダメだ。
しょうがない、駅で歌うのはあまり好きじゃないがやるしかないか。
久しぶりに駅でやってみたんだけど、やっぱり全然ダメ。
全然人が立ち止まらない。
みんな恥ずかしがってヒソヒソ話しながら通りすぎていく。
周りでは友達集めてぎゃーぎゃー練習がてら歌っている高校生たちばかり。
すると警備員さんが来て、ここではダメだよとストップかけられてしまった。
小田原の路上、なんて環境悪いんだ。
結局何組かに聴いてもらえたものの小銭だけでやっと1000円。
金曜にこれかよおおおお…………
町のチョイスミスったかなぁ……………
まぁ路上のためだけにわざわざ小田原まで来たわけではない。
翌日やってきたのは天下の関所、箱根。
路上やりながら周辺の観光地をキチンとクリアしていくぞ。
箱根は、関東と東海の境にたちはだかる大きな山で、昔から主要道が山中を通っており、現代でも国道1号線はこの山を越えていくというルートだ。
都心から日帰りでいける、名所あり、レジャー施設あり、温泉あり、テーマパークありの一大スポット。
古くから人が集まる伝統的なザ・観光地だ。
まずは箱根の入り口、箱根湯本温泉郷にやってきた。
昔ながらの旅館や観光施設が並び、ごちゃごちゃと道は入り組み、それなりに風情はあるんだけど、とにかく土曜で人出がパンパじゃない。
車全然進まないし、人まみれだし、こんなとこでのんびり温泉なんてとてもじゃないが考えられないな。
山道を登る途中もすさまじい数の旅館群だ。
塔の沢、大平台、堂ヶ島、木賀、強羅、仙石原…………と頭が混乱するほど温泉街が山中に入り乱れている。
彫刻美術館、写真美術館、水族館に恐竜ワールド。
湯治でも家族連れでもカップルでもなんでもウェルカムって感じ。
まぁ金のかかる山だ。
そんなテーマパークみたいな山中をグルグル走り回り、箱根神社にお参りしたら箱根旧街道資料館にやってきた。
東海道五十三次というのは、東京日本橋と京都三条大橋を結ぶ街道中にある宿場町の数。
その中でも小田原宿から箱根宿までの4里、箱根宿から静岡の三島宿までの4里を合わせた箱根8里は、旅人の間で難所と言われ恐れられたそう。
現在の舗装道とは別に深い山の中に今も残っている旧街道には、江戸時代に敷き詰めれた石畳がその姿を留めており、この道をチョンマゲの人たちがえっほえっほと登っていたのかと思うと、まるでタイムスリップしたかのようだ。
街道を通る主な人は、まず大名行列。
参勤交代というルールが江戸時代にはあり、各地方の大名は1年自分の国で働き、次の1年は江戸で働くという1年ごとの大移動をしなければならなかった。
行者の人数はその国の石高によって決められていたらしく、10万石以上は240人、20万石以上は450人、加賀百万石の大大名ともなればその一行は2500人を超えるほどで、この箱根宿はそんな行列が3日にいっぺんは通っていたというのだからその賑わい振りはすごいものだったんだろうな。
もちろん他にも商人や旅芸人、お伊勢参りの集団、飛脚などがひっきりなしに通っていたので、江戸に変な奴を入れないためには関所も厳しくなる。
箱根の関所は通行手形がなければ通れなかったのだが、この手形はまず出立前に自分の藩の偉い人に申請して発行してもらわないといけない。
2枚作って1枚は本人が持って、もう1枚は関所に前もって届けておく。
そして後日手形を持って本人がやってきたら、印が一致するかどうか確認して通していたのだという。
昔もそういうややこしい規則がちゃんとあったんだなぁ。
諸国大名の謀反を防ぐため、地方大名たちの奥さんを江戸に人質として住まわせていた徳川幕府。
どうしてもお殿様に会いたくて江戸を脱出するお姫様。
国へ逃げる女のことを出女といい、この出女をとっ捕まえるのが箱根関所の主な役目のひとつだったそう。
男装をしたり坊さんに化けたりして関所をやり過ごす女もたくさんいたようだ。
山に入り森をくぐって抜けようとする者もいたが、森の中にも兵がたくさん見張っていたのですぐに見つかっていた。
殺される者もいたようだが、実はほとんどが見逃されてたんだって。
今も昔も役人たちはかなり袖の下を得ていたんだそうだ。
ちなみに芸人は特別扱いで手形いらなかったんだって。
路上で旅する現代の芸人が通りますよー。
資料館の中には江戸時代の旅人たちが使っていた弁当箱や財布、網笠など、何百年も昔の人々の旅用品が展示されていた。
こんなのが屋根裏とかに残ってた古民家とか、昔の宿屋とか旧家とかがこの辺りにはたくさんあるんだろうなぁ。
山籠なんていういわゆるタクシーみたいな楽チンな交通手段もあり、他にも馬による山越えのサービスや、人力で荷物を担いで運んでくれるサービスなど、難所ならではの商売が色々とさかんだったようだ。
40キロ以下の荷と人1人を馬で運ぶんだときの料金は600文ですよーといった感じで値段もキチンと決まってたそう。
江戸時代の箱根の賑わいを描いた絵を見ると、たくましい男たちが荷物の積み下ろしをしている場面があった。
ここで馬をひき、汗をかいて、カミさんとご飯食べてたんだなぁ。
飛脚の人たちのことも色々書いてあった。
飛脚ってのはもちろんご存知、走る郵便屋さんのことだ。
この人たちはなんと東京~京都間を90時間で突っ走ったという。
約500キロだぞ?
1日130キロくらい走らんといかんとか超人すぎるやろ?
飛脚にもまた値段があり、1番高かった継飛脚(ちょー特急)はなんと500キロを48時間で走りきったという。
これは猛ダッシュで走って疲れたころに次の人にバトンタッチして、また疲れたころに次の人にバトンタッチして、といった具合に常に元気満タンの男が突っ走って運んでいたんだそう。
てことはちょうどいい場所に中継場所となる拠点があったってことだよな。
つまり江戸時代からそうした組織での郵便が確立されていたってことだ。
にしても今とあんま変わらんとかすげすぎる。
ちなみに継飛脚の代金は今のお金で数十万円とかなんだって。
数十万払って大の男が何人も死にそうになりながら走り倒して3日かけて届けていた文書が、今なら世界中どこでも2秒。
マジでEメールすげぇ。
そんな江戸時代の生活文化が色濃く残る箱根。
チョンマゲ時代に思いを馳せながら温泉につかり、山々を散策すれば、これぞ日本という良さをしみじみ感じられると思う。
現代的なテーマパーク、そして歴史的な価値も持つ観光地ってことで昔から人が訪れてきたのかな。
でも連休とか週末には行かないほうがいいな。
尋常じゃない混雑だから。
湯河原温泉郷を抜け、みかん農園の続く海岸線の風景を眺めながら走り、小田原に戻ってきた。
小田原といえば有名なのはお城だ。
天下の堅城、小田原城にやってきた。
江戸時代、180万石を誇った江戸、しかしそれ以前、北条時代の小田原は240万石という東国一の都として栄華を誇った。
小田原北条氏はとても寛容な人で、芸人や商人を歓迎し、たくさんの人が移り住んだそう。
箱根を降りてきた人、箱根に登る人、みんな小田原に1泊していたので、宿場としても大変栄えていたみたいだ。
小田原の古民家には今でも江戸時代の骨董品とかがたくさん眠ってるんだろな。
城は北条氏の居城で、あの武田信玄や上杉謙信に攻め込まれた時もはじき返し、秀吉の城攻めの時にだって陥落することはなかった大城郭。
確かに古い屋敷や民家、商家が通りのいたるところに見られ、街全体にどことなく品格が感じられる。
天守閣の中には大都市として栄えた時代を偲ばせる武器や鎧が多数展示してあり、かなり充実した内容だ。
城の天守閣でこれだけ楽しませてくれるとこはあまりない。
よっしゃ!!こんなところで関東の入り口である箱根・小田原散策は完了。
今日はこのまま平塚あたりで歌おうかなぁと思ってたら土砂降りになり、しょうがなく川崎の光ちゃんの部屋に戻った。
歴史は面白いなぁ。
ただの知識だけでなく、現地で実感を持って見て回ればさらに面白くなるよ。
これからもっともっと日本の深いところを見ていくぞ。
それこそが旅の楽しみだ。
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