8月9日 土曜日
【中国】 シャングリラ
宿の家族のみんなにシャングリラについて色々と教えてもらった。
壁に貼ってある地図を見ると、シャングリラは本当に険しい山脈地帯の中にポツリと存在しており、周りには小さな村がまばらに取り残されているのみ。
その分自然の見所はたくさんあるみたいで、深い山の大峡谷や川下り、伸びやかな高原、湖など、美しい自然を堪能することが出来るようだけど、なんせ全てめちゃくちゃ遠いのでツアーを組まないと行くのは難しいようだ。
面倒くさい。
シャングリラでの目的はあくまでビザの延長。
ただ昨日の時点でチベット圏の寂しい風にすっかり魅了されてしまっている。
そして今日は土曜日。公安が開くのは月曜日。それまでビザの手続きはできない。
この週末のうちに近場の見所を見てみたい。
そしてもちろん路上も。
シャングリラは大理や麗江みたいな一大観光地ではなく、僻地の小さな町なので観光客も少なく、おそらく取り締まりもそんなに厳しくないというのが昨日町歩きした印象だった。
ここから成都まで進んでいく道はさらに僻地となり、チベット文化が色濃くなるにつれ標高も上がっていき、4000m~5000mの町を回っていくことになる。
おそらく観光客はほとんどいなくなるだろうし、高山病で歌うのも厳しくなるはず。余裕で富士山より高いし。
麗江で歌えなかった分、このシャングリラで出来るだけ稼がないと本気でお金がない。
チベットの山の中で途方に暮れるなんてシャレにならん。
というわけで、宿のおじさんが教えてくれた、シャングリラに来たら必ず見なければいけないというお寺に行くことにした。
相変わらずダルすぎる体で宿を出てとぼとぼと町の中を歩いた。
夜は冷え性が足が冷たくなるくらい気温が下がるシャングリラだけど、日中はうっすら汗がにじむくらい暑い。
太陽の距離が近くジリジリと照りつけてきて頭がぼんやりしてくる。
古い瓦礫のような家が並び、通りに人影はなく、道端のゴミ置き場で豚が生ゴミをあさっている。
空気がとても乾燥しており、すぐに喉がカラカラになってしまう。
空はどこまでも青く、ゆるやかな緑の丘がうねり、極彩色の漢字の看板が派手にたたずんでいる。
何の前触れもなくやってくる下痢に立ち止まってあぶら汗をかきながら耐え続け、何度も公衆トイレに行きながら歩いた。
しばらくすると、大きな観光客用の建物に行き当たった。
中に入るとチケット売り場があり、たくさんの人が並んでいた。
ん?ここから先はチケットを買わないといけないのか?
この先に有名なお寺があるんだけど、まだ2kmくらいある。
途中に小さな村だってある。
歩いてお寺まで行けると思ってたのに、どうやらここから先は完全に規制されたエリアになるみたいだ。
チケットを買わないといけない。
これが高い。
115元もする。2千円。
お寺の参拝料が2千円てマジかよ………
しょうがないか………ここは必ず行くべき場所みたいだしな………
しぶしぶチケットを買ってゲートをくぐるとシャトルバスが待ち構えており、中国人たちに混じって乗り込むとバスはすぐに出発。
のどかな農村の中を走っていくと、すぐにすごいものが目に飛び込んできた。
緑豊かな高原がうねり、湿地の池が空の青を映し、アヒルやカモが泳いでいる。
そんなどこにでもある小さな田舎の村の中に、壮大な宮殿がそびえ立っていた。
そのあまりの規模に目を疑わずにはいられない。
まるで神話に出てくる光景みたいな神々しさとともに、怖くなってしまうほどの圧倒的な存在感。
ノアの箱舟とか、古代の出雲大社とか、そんな絵本レベルの光景だった。
これがチベットの山岳仏教………
バスを降りて門をくぐり、階段を登っていく。
頭上にそびえる金色の寺院。
階段の途中にもたくさんのお寺があり、それぞれにたくさんの僧侶たちの姿があった。
この丘の斜面にへばりつくように寄り添っている古い建造物群はおそらくほとんどが僧侶たちの住居なんだろう。
住居の小ささと無機質さが、頂上の寺院を異様なまでに浮かび上がらせている。
町の作り全てが仏の崇高さに膝まづくかのように。
本堂の中は身が震えるような神聖さだった。
暗く淀んでいる。それでいて静謐で、ロウソクの明かりが仏像の顔に影をつける。
チベットの寺院はとても色が多く、カラフルで、一見陽気にも見えて、それが空気を重くしているようでもある。
独特な雰囲気がある。
同じ仏教なのに、これまでにない深い暗さを見る。
まるで奈落の淵のように。
手を合わせて般若心経を唱えた。
体のダルさが異常なのは体調不良のせいだけではない。
きっと標高が大きな理由だと思う。
階段を10段上がっただけで太ももの筋肉が悲鳴を上げて身体中の酸素がなくなってしまう。
大きく息をしながら広場から辺りを見回した。
目の前に広がる湿地帯には水草がはえて水鳥が泳いでいる。
うねる緑の丘には高い木ははえておらず、草原が広がるのみ。
その草原の中にポツリポツリと祠が立っているのが見える。
祠にはチベットの象徴である色とりどりの旗、タルチョが張り巡らされ、蜘蛛の巣のように絡みついている。
草原の中に、湿地帯の陸地に、小高い丘の頂きにも、いたるところにそんな祠がある。
あそこに行ってみようと腰を上げた。
息をつきながら集落の中の路地を行ったり来たりした。
この集落自体が城壁に囲まれており、なかなか裏山に抜けることができない。
坂道だらけなので少し歩いては座って休憩し、また歩いては道端に座り込む。
本当に空気が薄くて、弱った体にかなりこたえる。
ようやく家の隙間に半壊したような門をを見つけ、外に出て城壁沿いに歩いていく。
ひと気はまったくなく、静寂だけが風の中にあった。
下痢に耐えられず何度か草陰に隠れて水を出し、フラフラしながら草原の斜面を上がっていく。
土を踏む音が耳に残る。
太った雲の隙間からのぞく空はどこまでも青く、とても近かった。
岩場に2人の老いた僧侶が座って何か会話をしていた。
ニーハオと挨拶すると、笑顔でうなづいてくれた。
はぁはぁと痩せこけた胸を起伏させる。
細い腕と足が頼りなく震える。
空気を吸いこむたびに新鮮な力が行き渡るのを感じる。
何やってんだろうな。
ようやく草原の中にある祠にたどり着いた。
タルチョが雑然とくくりつけられ、吹き下ろす風にバタバタとはためいていた。
曇天の空の下に、カラフルな旗の色彩が強調されている。
中央の石碑の下に座った。
風が強く吹くたびにタルチョは音をたて、千切れそうに煽られる。
タルチョの布には仏教の教えが記されており、この教えが風に乗ってどこまでも遠くへ伝わるようにという意味があるらしい。
そしてチベット文化圏では鳥葬という、死体を鳥に食べさせて空へ還すという風習もある。
詳しくは知らないが、鳥葬とは無数の命を糧に生きてきた人間が最後は自分の体も生物たちの命のサイクルの中へと戻すもの、というような話を聞いたことがある。
風と、空と、草原の中に、人間の命のささやかさが吹き渡っている。
寂しくて、少し寒くて膝を抱える。
俺が生きていることも、この風が吹き飛ばしてくれる。
バタバタとタルチョが揺れる。
怖くない。何も怖くはない。
生と死なんてそんなの遠いこと。
今はご飯のこととか、好きな女のこととか、やらなければいけない小さなことに思い煩うくらいがちょうどいい。
遠くへ行きたいという想いは、命の形を見たいということなんだろうな、多分。
立ち上がって坂を降りた。
僧侶のお爺さんたちがまだ話してるのが見えた。
すると足元が滑ってこけて肘が汚れてしまった。
帰ったら洗濯しないとな。