7月31日 木曜日
【インド】 コルカタ
~ 【中国】 大理
飛行機はわずか1時間半ほどで降下態勢に入った。
本を読み始めてすぐだったので、インドと中国がそんなに近かったのかと驚いた。
時計を見るとまだ夜中の2時半。
時差を整えると表示が朝の5時に変わった。
時間が縮まり、夜が一気に朝になった。
つまり今日という1日を21時間と30分しか生きていないということになる。
この感覚がまったく新しいものだった。
今まで俺は常に西へ西へと移動してきた。
時差が発生するたびに時間が広がり、いつも1日を25時間、26時間も生きてきた。
西へ移動し続ける旅。
地球を一周するならば、同じ方角に向かわなければいけない。
しかし今、俺は時差という目に見えないものを通して自分が東へと向かってる事実に気づいた。
今まで広がり続けてきた時間のズレ。その帳尻を合わすように時間は2年前へと戻ろうとしていた。
飛行機は無事に滑走路に着陸し、みな降りて行く。
俺もドキドキしながら飛行機を出てターミナルの中を歩いていく。
緊張する。別にやましいことなど何もないのに手に汗がにじんで鼓動が早くなる。
相変わらず国境恐怖症は治らない。
中国という未知の国は一体どんな国境審査があるのだろう。
平静を装いながら歩いて行くと、イミグレーションカウンターが現れた。
みんなそこに並んで審査を受けている。
スタンプが捺されるバスンという音がまだ6時前の静かなターミナルに響く。
中国は入国にビザが要る。
そして俺はビザを持っていない。
インドの時のようにアライバルビザのカウンターを探す。
インドでは奥まったところに手続き場があり、そこでビザをゲットしてからイミグレーションに向かうという流れだった。
しかしいくら周りを探してみてもそれらしきカウンターは見つからない。
ビザ代とかどうすればいいんだろ?と思いながら、まぁイミグレーションで聞けばいいかなと簡単な入国カードをささっと記入して列に並んだ。
そして俺の順番が来た。
おばさん審査官にパスポートと入国カードを渡す。
ドキドキしながら質問されるのを待つ。
多分ビザはどうしたとか、出国のチケットとかを聞かれる。間違いない。
「中国はどこに行くの?」
「大理と成都に行きます。」
「…………」
バスン!!
パスポートにスタンプが捺されて、行っていいよと言われた。
え?
行って……いいの?
終わり?
1700円のビザ代は?
アウトチケットの確認は?
え?え?と戸惑いながらイミグレーションを抜ける。
え?終わり?
終わりです。
アウトチケットの確認もないです。
中国での滞在先ホテルの住所とかも聞かれないです。
ていうか証明写真を撮ってきたのに1ミリも必要ありません。
荷物のX線チェックもありません。
中国の入国、マジ余裕。
あ、一応何日滞在できますか?と聞いたら15日だと言われました。
そこは情報通り。
もしオーバーする場合は大きな街の警察署で延長できるという情報。
マジ楽勝。
空港のデカさと豪華さにビビりながらターミナルを出ると、ひんやりとした空気が頬をなでた。
うわ、涼しい。
涼しいってなんて素晴らしいんだ。
あのインドのむせるような熱気から、一気に初秋の朝の爽やかな冷気へと変貌を遂げた。
明け方の空の白く寂しげな色がなんとも言えず胸に迫った。
しんとした静寂がまるでこの国の大地の広さを語りかけてくるよう。
ああ、ここは中国なんだ。
「コケー!!コッ!!コッコッ!!!クワーーー!!!」
その静寂を打ち破って、向こうのほうでニワトリの鳴き真似を本気でやってる変人がいた。
コッコッ!!コッ!!とかなりマジに真似している。
な、なんだあの人!!頭イカれてんのか?!と思ったらそのおじさん、すごい勢いでペッ!!と痰を吐き捨てた。
ニワトリのモノマネではなくただの痰切りでした。
そこらへんでやってます。
中国人は痰を吐きまくるというのは本当らしい。
ヤベェ中国怖えと思っていたら、今度は反対車線のほうから1人の中国人が歩いてきた。
シャツをはだけてタンクトップをさらしたジャッキーチェンの映画に悪役で出てきそうなおじさんがタバコをくわえながら俺のところにやってきた。
な、なんですか………何か文句でもあるんですか……
いきなり何かをまくしたててきた。
もちろん全部中国語。
1ミリもわからない。
ちょ、こ、怖い!!
いきなり中国人にアグレッシブに話しかけられて怖い!!
どうやらよく聞くと、タクシー、という単語が混ざっている。
なるほどタクシーの客引きか。
近くにあった昆明の街のマップを指差して、ここか?それともここか?と聞いてくる。
行きたい場所はどこかと尋ねてきているみたいだ。
その看板には中国語表記の横になんとかホールとか、トレインステーションといった英語表記も書いてある。
しかしおじさんは完璧に中国語オンリーしか喋ってこない。
空港で、外国人を相手にタクシーの客引きをしているのに、トレインステーションという英語もわからないという驚愕の事実。
そしておじさんはトレインステーションならこれだ、と自分の財布の中から100元紙幣を出して見せてきた。1700円。
ここから街までどのくらい離れているかもわからないし、中国の物価もまるでわからない。
ただアジア、インドから来た俺からすると1700円はとてつもなく高い。
中国ってそんなに物価高いのかな?という気持ちと、完全にボッてるだろという気持ちが混ぜこぜになりながら、今手持ちが50元しかありませんと言うと、OK、50元でいいよ!!と手招いた。
2秒で半額。
ぼったくり決定。
怖え……と思いながら歩いていると、バスのチケットブースを見つけた。
空港から昆明のトレインステーションまでのシャトルバスが25元、400円。
どうやらそんなに安くはないようだ。
しかしやってきたバスを見て、その値段に納得した。
インドだったら王族レベルが乗るようなピカピカの外装で、中はもう神の住居みたいな清潔感溢れるシート。
そして走り出しても驚きと嬉しさでアドレナリンが出まくる!!
道路が!!!道路が綺麗!!!
みんな車線を守ってる!!!
誰もクラクションを鳴らさない!!
その全てが先進国のそれで、アジアとインドを抜けてきた身からすると快適この上ない!!
ああ!!嬉しい!!インドから解き放たれて嬉しい!!
インド人見てみろ!!クラクションはいざという時しか鳴らさないんだ!!
いや、普通なんだけどね。アスファルトに穴があいてなくて、みんな車線を守って走るなんて当たり前のことなんだけど、それがどれほど嬉しいことか。
もうこの時点で中国が好きになっているんだけど、街に入ってきてさらにドキドキがはち切れそうになる。
大きなビルが立ち並び、綺麗な歩道が伸び、ゴミがまったく落ちていない。
巨大スクリーンには美しいモデルの女性が映り、きらびやかなコマーシャルが流れている。
興奮しながら駅前の大通りでバスを降りると、中国の匂いがブワッと漂った。
こんな文明国の整備された街並みだけれども、通りの食堂では大衆的なご飯の写真が貼られ、当たり前の小さな商店や洋服屋さんやカメラ屋さんなどの日常の光景が目に飛び込んできた。
歩いてる人たちはもちろん全員中国人。
日本人と同じ顔をした人々。
世界中を旅して、目の色や髪の色や顔の作りの違う様々な人種の地域に行ってきたが、とうとう俺と姿形の同じエリアに入った。
こここそが俺たちアジア人のホームグランド。
そのいたってシンプルな事実があまりに強烈に胸を叩く。
世界ってすげぇ。
そんな街の中をドキドキしながら歩いていく。
大きな目抜き通りの車道にはたくさんの車とバイクが走っているんだけど、ふとあまりにも静かだなと思った。
バイクが俺の横を通り過ぎる時、エンジンの音がまったく聞こえない。
もしここで歌ったとして、反対側の歩道まで声が聞こえそうなほどに騒音がない。
そう、バイクが全て電気バイクなのだ。
まったく、まったく音がしない。
車もハイブリッドが多いのか、ほとんど音がしない。
中国は巨大な国だ。
恐ろしい数のバイクや車が走ってるはず。
環境に配慮するのが先進国の義務ならば、交通面においては中国は確実に世界トップのエコ意識を持ってる。
昆明の駅はものすごい人ごみだった。
まず駅舎の前に大きなゲートが設置されており、1人1人全員の荷物と身体検査が行われていた。
こりゃ駅に入るだけでも時間がかかる。
なんとかゲートをくぐって中に入り切符売り場へ。
うおおおおおお!!!!自動券売機いいいいいいい!!!!!
文明ええええええ!!!!!
なんか久しぶりすぎて操作がよくわからなくて、でもそのよくわからないのが嬉しくてポチポチやりながら大理の文字を探す。
目的地……大理ね、
時間は……30分後の次のやつね、
うんうん、なにからなにまで親切。
シートは……硬座と硬臥ってのがあるな。
多分、硬臥ってのは文字からして寝台のことだろう。
ならば硬座のほうが安いはず。
そして値段が、64元。千円。
ここで気づく。
あ、お金ない。
えーっとどこで換金できるんだろう、と駅舎の中をウロウロしてみるがどこにも換金屋がない。
そうだ、昨日ハンが言ってた。中国では換金するためには銀行に行かないといけないって。
ぬおおお………なんて不便なんだ………
アジアなら換金屋なんてそっこらじゅうにあったのに。
仕方なくまたゲートを出て銀行を探し、近くにあった銀行へ。
まだ朝早いので開店するのを待った。
ようやく8時になってオープンした銀行で窓口に行き、ドルを出してジェスチャーで換金したいと伝える。
しかし帰ってくる言葉は全て中国語。
銀行の職員というそこそこの教育を受けているであろう人なのに英語ゼロ。
ここの銀行では替えられないというような雰囲気なので、どこなら出来ますか?と頑張って伝えようとするが、中国語であしらわれるのみ。
おおお………怖え……なんにも通じねぇ………
なんとかそこらへんの人に尋ねてみるが、みんな英語がわからず、まるで話にならない。
途方に暮れて立ち尽くす。
東南アジアならば、そしてこれまで訪れた外国の国々ならば、こうして途方に暮れていると必ず誰かが声をかけてくれたもの。
どうしたの?大丈夫?って心配してくれた。
しかしここは中国。俺は彼らと同じ顔をしている。
ここは俺のホームグランド。つまり今まで外国人ということで甘やかされていたことがここではもう通じないんだということに気づいた。
マジか………
こいつはなかなかハードだぞ………
どうしようもなくて銀行を出てとぼとぼ歩く。
話しかけようにも俺は中国語は喋れないし、いきなり英語で話しかけるのがすごく失礼なことのように思えて気が引けてしまう。
同じアジア人同士で英語で話すってのはどこか違和感があるもの。
しかし尋ねないことには何もわからないんだよ。ガイドブックなんて持ってない。
今まではどの国でもだいたい何がどこにあってどうやればいいかってのは感覚でわかったものだが、この国はどうやら様子が違う。
ここは今まで訪れてきたバッグパッカーご用達の国ではないようだ。
培ってきた旅の感覚がほとんど通じない。
旅に出た最初の、あのロシアに入った時の心細さと無力さと悔しさが入り混じった感覚が胸を支配する。
まるでスタート地点に立ったかのようなこの気分はとても新鮮な感情をもたらしてくれるが、同時にすごくタフな道のりになることを表している。
それからも勇気を出して何人かに声をかけて身振り手振りで換金する場所はどこかたずねてみるが、みんな中国語なのでまったく理解できない。
別に冷たくあしらわれるというわけではない。
みんな足を止めて時間をとってくれる。
しかしお互いまったく理解し合えずに終わるということを繰り返していると話しかけるのが申し訳なくなってくる。
歩き疲れてヘトヘトと座り込んだ。
はぁ……こんなに言葉の壁で苦労したのっていつぶりだろう。
疲れがドッとのしかかってくる。
そういえばもう24時間近く寝ていないし、風邪がまだ治っていないので意識が朦朧としてくる。
ああ………どうしよう………
こんなんで中国をどうやって旅していけばいいんだよ………
うなだれながらかなり絶望的な気分になっている時に、ふと街に溢れる看板に目をやった。
当たり前に漢字で書かれている看板たち。
そりゃそうだ、ここは中国だもん。
ん?漢字?
あ、書けば分かりあえるかも………
そうだ、俺も発音は聞き取れないけど、漢字で書いてもらえばほとんど意味はわかる。
そうだ、と思いノートとペンを出してまたおじさんに尋ねてみた。
おじさんはペンをとって、ノートに文字を書いてくれた。
そこには「中国銀行」と書かれていた。
そして通りの向こう側を指差した。
シェイシェイと言って言われたほうに歩いていくと、そこにはまさに中国銀行があった。
うおおおおお!!!!
すげぇ!!筆談すげぇ!!
こんななんてことないことがあまりにも感動的だった。
漢字って、まさに漢民族の字。
やっぱここはホームグランドなんだ。
無事ドルを30ドル換金し、184元をゲット。
そのまま駅に戻り、また身体検査を受けてゲートをくぐって自動券売機で大理までのチケットをゲット。
売店で1.5リットルの水を4元、65円と、カップラーメン5元、90円を買って電車に乗り込んだ。
もう目に映るもの全てが新鮮な衝撃をくれる。
中国人はタバコが好きみたいで、どこでもそこでも吸っている。
駅舎の中のトイレの中でも吸ってたし、この電車の中でも吸っている。
飲み水コーナーが充実してるかと思ったらそれ以上にどこにでも公衆のお湯の蛇口があり、みんなそこでポットや水筒にお茶を飲むためのお湯をくんでいる。
おかげでどっこでもカップラーメンを食べることができる。
そして電車に乗り込んだものの座席が満席になってしまい、仕方なく連結部分のスペースに立っていたら車掌さんが小さなプラスチックの椅子を渡してくれた。
シェイシェイと言っても、真顔で去っていく車掌さん。
中国人たちはみはそんなに笑顔を見せない。でもそれは不必要な干渉をしない彼らの距離感だ。
iPhoneをいじっていても、バカみたいに横から覗き込んできて勝手に画面を触ってくるというインド人みたいなことはもちろんしない。
その落ち着いた雰囲気がなんだかとても心地よい。
どんどん中国の印象が良くなっていく。
しかし今のズタボロの体で座席なしの小さなプラスチック椅子はなかなかきつくて、6時間で電車が大理に到着したころには身体中がバキバキになっていた。
腰が痛すぎる………
満席だった電車の中の乗客のほとんどが大理で降り、ものすごい人波になってゾロゾロと駅を出ると、そこにはたくさんのホテルの客引きたちが集結しており、口々に叫んで客をつかまえようとしている。
しかし誰も俺には声をかけてこない。
みんな中国人に的を絞っている。
汚いバッグパッカーに用はねぇってとこか。
アジアならいの一番に俺に群がってきてたってのに、本当何から何まで中国は外国人をあてにしてない国だ。
大理も想像以上に大きな街で、いくつものビルディングが立ち並び、都会的に整備されている。
本当中国はどんな小さな街でもそこそこの人口があって、そこそこ栄えている。
1000万人都市がいくつもある。
この大理は古都として知られている街。
京都みたい、という話を聞いている。
しかしどこにそんなエリアがあるかわからないし、どうやって行けばいいかもさっぱり分からない。
しかし筆談という技を覚えた今、俺はほぼ中国人。漢字なら理解できる。
いやー、これ欧米人大変だろうなぁ。
まぁ俺も今まで散々欧米諸国やアルファベットの国を周ってきて肩身の狭い思いをしてきたんだ。
英語やスペイン語やヨーロッパの言葉がわからなくてどれほど苦労したことか………
ここは欧米人にも苦労してもらおう。
世界はお前たちの言葉だけで周ってるんじゃないんだぞ。
駅前から2元、30円のバスに乗って大理の歴史エリアを目指す。
バスは街の中を抜けて郊外へと向かい、のんびりとした風景の中を走っていく。
遠くに大きな湖が見える。
山に囲まれており、湖の周りには瓦屋根の民家が並び、懐かしさがこみ上げてくる。
少しだけ作りや色合いは違うけれど、その町の風景はもうほぼ日本と変わらないノスタルジーをたたえていた。
中国から文化が入ってきたんだもんな。いわば母国みたいなもんだ。
バスを降りると、わずかに観光地っぽい臭いがした。
巨大な城壁があり、その城壁沿いに人が歩いている方へと向かって行くと、どんどん食堂や土産物屋さんが増えていく。
そして城壁の途中に壮大な楼門が現れると、そこにはまさに一大観光地の様相を呈していた。
無数に行き交う人々、賑やかな食堂、目の前にある中国の歴史映画に出てくるような壮麗な城門。
あまりの異国っぷりに震えがくる。
久しぶりすぎる、こんな感動。
本当、旅の初心者に戻ったかのようだ。
うー、やっぱり中国はどこまでも期待を超えてくれる!!!
後編へ続く………