10月4日 金曜日
【メキシコ】 エンセナダ
穏やかな朝。
暗い部屋の中、カーテンの隙間から光が差し込む。
ドアの外からプールで泳ぐ音が聞こえる。
朝の水泳教室の時間だ。
泳ぐ水の音に混じってジェニファーさんの元気で愛想のいい声が聞こえる。
いつも俺より早く起きて、プールサイドでスペイン語の勉強をしているジェニファーさん。
お掃除のおばちゃんやスタッフさんとも、もう家族のように仲良くなっている。
ここはエンセナダの住み慣れたホテル。
起きてシャワーを浴び、早速ジェニファースペイン語教室。
頭がこんがらがってなかなかすぐには出てこないけど、とりあえず挨拶くらいは覚えた。
簡単な単語も聞き取れるようになってきたので、そこから何を言いたいのか想像することができる。
「ケキエレスコメール?」
「トドス!!エスタビエン!!」
「お昼何食べます?」
「何にしようかいな。いつものタダイマ行くか?ウチホンマ味にはうるさいからなぁ。」
「それ、大阪人だからただ喋りすぎでうるさいだけじゃないですか?」
「何ゆーてんねんアンタ、しばくでホンマ。こんな上品なお嬢つかまえて。八尾やからゆーてバカにしたらあかんで。」
「やっぱり八尾はガラが悪いんですか?」
「YAOって書いてヤバイ、アヤシイ、オカシイって言うくらいやからなぁ。チンチン見せてくるオッさんの巣窟やで。」
シャネルとかグッチとかが入ってる立派なデパートあるじゃないですか。
日本の数あるデパートの中でも雪駄とステテコで入っていいのは布施の近鉄と八尾の西武だけらしいです。
ステテコが正装だと思ってるらしいです。
嘘つけ(´Д` )
「嘘ちゃうわ。この前の皆既日食の時とか、ステテコで上半身裸のオッさんがサングラスかけてそこらじゅうで空見上げとったからな。治安はええで。」
気性が荒そうなジェニファーさんですけど、そんなことないんですよ。
とてつもなく荒いんです。
まぁ綺麗な人だからよく痴漢に遭うらしいんですけど、お尻を触ってくる手に安全ピンをブっ刺したり、ライターで焼いたりしているそうです。
「刺した安全ピンがなぁ、お気に入りのやつやったから抜こうとしたねん。でも針が曲がっとってなぁ、なかなか抜けんへんでグリグリ引っ張ったらオッさんの手、血まみれになっとったでー。」
高校生のころに学校帰りに、暗い夜道でいきなり後ろからオッさんに羽交い締めにされて押し倒されたことがあったらしいんだけど、持ってた傘が原形をなくすまでメタくそにしばき倒したところオッさんは命からがら逃亡。
しかし血がぼたぼた出ていたので、その血痕をたどってオッさんは警察に御用になったそう。
「だって怖くて声も出せへんかってんもん~。レイプされてたかもしれへんのやで~。」
その犯人は当時近隣を騒がせていた連続痴漢犯だったそうで、その件でジェニファーさんは八尾のヒーローになったという。
怖すぎる。
そんなホラー話を聞きながら飯も食わずにひたすらスペイン語の勉強をして、ベサメムーチョの練習をして、
さて夕方から行動開始。
いつもの日本食屋さんタダイマでご飯を食べ、いざ路上へ向かう。
今日は金曜日。
賑わうぞー。
と思ったら人全然いねーじゃねぇか。
このエンセナダは30万人ほどの大きな町だけど、やっぱり金を落とす遊びをするのはカリフォルニアからの観光客。
地元の人はローカルエリアの安いお店で済ませている。
観光通りは本当にまばらな人影のみ。
それでもやらないわけにはいかない。
ジェニファーさんとの別れは迫っている。
ティファナからメキシコシティー行きのバスは1600ペソくらいする。1万3千円くらい。
メキシコは食べ物の安さに比べてバス代はなかなか高い。
そんな寂しい通りで歌うわけだけど、この日もたくさんの人とお話しできた。
子供はやっぱりとことん可愛い。
お子さんの写真撮っていいですか?と聞いて断る親もまずいない。
みんなみんな、底抜けに優しい。
そんな中で、ついに初めてのベサメムーチョに挑戦してみた。
このメキシコでベサメムーチョ。
誰でも知ってる誰もが愛する曲。
もはやジェニファーさんはベサメムーチョがメキシコの国歌だと思っている。
日本でいうところの水戸黄門のテーマ曲くらい誰でも歌える曲。
なので下手に歌ったら水戸黄門ファンにぶん殴られる!!
緊張しながらも思い切って歌った。
すると…………
先輩たちがやってきて演奏に加わってくれた!!!!
先輩いいいいいいいい!!!!!!
トリオ ロス パンチョス。結成。
うおおおおお、めちゃ嬉しいぜ………
ウッドベースとも違うし、マンドリンとも違う。
見たことのないメキシコの伝統楽器で奏でるベサメムーチョ。
哀愁の年季が違いすぎる。
染み出る人生の重みがある。
もちろん先輩たちは、この道40~50年とか。
ベサメひと筋50年とか。
日本のおやっさんたちに水戸黄門歌わせたら俺たちに勝ち目なんてないのと同じように、歌いこまれた年季と人生経験はそのまま歌に、楽器の音にあらわれる。
これからもいろんな経験して、それを表現できる歌い手になりたいなって、先輩の演奏を聴いてしみじみ思った。
ありがとうございました!!!
今日のあがりは314ペソと3ドル。
計350ペソ。
「いい声ね。よかったらウチのお店に来ない?そこでカフェをやってるから歌ってくれてもいいし、ゆっくりしていってくれてもいいわ。」
そこに声をかけてくださったのは、流暢な英語を喋るアクティブそうな女の人だった。
お店でやっていいよってお誘い、なんだかんだで久しぶりだな。
喜んで行かせてもらうことに。
やってきてのは、観光通りの建物の2階にあるカフェ、スピリットラウンジというお店。
なんか怪しげな空気が漂う薄暗い木の階段をのぼる。
そこにはとってもイカした空間があった。
古民家を改装したログの店内に、仏教の小物やアラビアのテイストなど、世界中から集められた雑貨や本がセンスよく並べられており、混沌とした中にトランス系のワールドミュージックがたゆたっている。
テーブル席だけでなく、床に座るスペースや、洞窟のような個室もあり、お客さんたちはそれぞれにゆったりと体を投げ出してまどろんでいる。
おいおい、こいつはかなり危険な店だな。
ただでさえ気持ちのいいエンセナダで、こんな脱力できる場所を見つけてしまったら、もう沈没から逃れることができなくなってしまうぞ。
「ゆっくりしていって。お茶にする?それともコーヒー?」
ここのスタッフであるカッコいい女の人、サンディーがハーブティーを運んでくる。
さっきからジェニファーさんとやけに親しげに触れ合ってるなぁ、と思ったら、どうやらこのサンディー、バリバリの同性愛者だった。
さすがはジェニファーさん。
そっち系の人を引き寄せる力が半端じゃない。
トランスミュージックが頭の中でぐわんぐわんに反響して体が沈んでいく。
本棚の中にこんなものを発見した。
ここのオーナーさんはよほど世界中を旅して回ってる人なんだろうな。
日本を遠く離れたこの異国で、こんなノスタルジーに触れられるとは。
そのノスタルジーさえもまた思考を沈殿させていく。
「ああー………たまらんなぁ。ウチこういうお店大好きやわー。バリとかでよく行ってたんやー。」
歌うつもりでここに来たのに、あまりに脱力してしまってとてもじゃないけどギターを出す気もなくなってしまった。
ああ………バハカリフォルニア。
どこまで体を解き放ってくれるんだ。
旅の怪しい深みにどこまでも沈んでいくようだ。