1月6日 日曜日
【トルコ】 コンヤ
JBカフェで穏やかな朝。
ジャネルのいれてくれたネスカフェを飲みながらのんびりとみんなでお喋り。
あー、いい朝だなぁ。
あ、トルコではコーヒーはトルココーヒーとネスカフェの2種類があります。
トルココーヒーは粉っぽいです。
ネスカフェが普通のコーヒーです。
ショッピングストリートへ歌いに出かけた。
街を歩くと、昨日の路上を見かけた人たちが、おー!ジャパニーズ!!元気かい!?と声をかけてくれる。
歌い始めるとすぐに人だかりが出来上がり、たくさんの人たちと話した。
昨日の若者たちもやってきて、ヘイ、
ブローとハグ。
トルコでは握手をして両方のコメカミをくっつけるのが挨拶みたい。
「フミ!!フミ!!ストップ!!演奏ストップ!!」
わけもわからず歌を止める。
街に流れるイスラムの歌、アザーン。
お祈りの時間を知らせる放送がモスクから流れている。
アザーンが流れてる時は音楽はすべて止めなければいけないのだ。
「ごめんなさい!!知りませんでした!!」
「いいんだよ、いいんだよ。君は日本人なんだから。あはははー!!」
みんなみんな、笑顔を向けてくれる。
パムッカレでの軽薄な、嘘の笑顔ではない。
本物の笑顔だよ。
本物の笑顔ってこんなに暖かいものなんだよな。
昼と夜の2回。
すっかり仲良くなった仲間たちと路上で歌い、あがりは80トルコリラ。
警察は来ない。
これでカッパドキアにいけるぞ。
いつもの紅茶の差し入れ。
JBカフェではもはや、紅茶もネスカフェも軽食も全部タダで出してくれる。
お金を払おうとしても、君はゲストだから、と受け取ってくれない。
「フミ、エルトゥールル号の話を知ってるかい?」
お!!ついに出た!!
恩着せがましく聞こえるといけないから自分からは聞かなかったこの話。
それは1890年の出来事。
オスマン帝国海軍が日本の和歌山県沖で岩礁に激突して沈没。
600人近くが亡くなる大惨事となったわけだが、数人のトルコ人たちが和歌山県の岸に流れ着いた。
時はまだ明治中期。
田舎の小さな村の人々にとってはトルコ人の顔つきなんて恐ろしくてしょうがなかったはず。
言葉ももちろん通じなかったはずだし。
しかしこの小さな村の住民たちは、食糧不足の中、わずかな備蓄を与え、ニワトリもしめて遭難者たちに与え献身的に保護し、69名が生還することができたという。
この出来事をきっかけにトルコでの日本のイメージは絶頂に達し、誰もが日本に感謝したという。
と、ここまでは俺も知っていた。
しかしトルコと日本の深い繋がりには実はこの続きがあったのだ。
時は1985年。イラン、イラク戦争。
イラクが、いついつから上空の飛行機への攻撃を始めるからな、と宣言をしたため、各国の政府はイランに住んでいる自国の国民たちを急いで軍用機などで救出していった。
しかし、日本は自衛隊派遣はしないなどの原則があったために救出に向かえず。
そこで日本はトルコに助けを求めた。
「わかりました。救出に向かいます。私たちはエルトゥールル号の恩を一度も忘れたことはありません。」
と言い、やってきたトルコ航空の飛行機で215人の日本人が日本に帰ることができたという。
なんてこった。
助けてあげたことだけしか知らないで親日国トルコ!とか言ってたなんて間抜けもいいとこだよ。
トルコ人が、俺たちは兄弟なんだよ、と言っていた本当の意味がようやくわかったよ。
でも彼らがもし日本にきた時に、日本人はどんな顔をするだろう。
俺が彼らに受けているようなおもてなしを日本人はするだろうか。
それどころかアラブ系の顔をしている彼らをテロリストと一緒に見て避ける人が大半なんじゃないだろうか。
「フミ、俺は日本を愛している。日本に行きたい。もし俺が日本に行ったら日本の人は俺のことをどう思うだろう。」
もちろん親日国トルコの人として心からのおもてなしをするさ!!
とは言えなかった。
きっと悲しい思いをたくさんすることだろう。
アメリカ人にでさえ帰れ帰れって入店拒否するお店があるのに、それが中東のイスラム教徒だったらどんなことになるのか、想像しただけで悲しい。
「日本人は最初に壁をつくるんだよ。そして時間とともに壁が壊れていき、もし全部壊れたら日本人はみんな全力で君を守ってくれるよ。エルトゥールル号みたいにね。」
「ありがとうフミ。それが聞けて嬉しいよ。だってトルコもそうだからね!!ミソスープノミタイデス!!!」
なんて愛に溢れた人々なんだろう。
例えば俺が裸の100万円を持って寝てたとする。
そこに通りかかった時、彼らは何をするか。
俺に毛布をかけるだろう。
よし、明日はみんなに日本食を作ろう。
日本を感じられる料理…………
決めた!!
答えは次の更新のタイトルで(^-^)/
ヒント……焼きそばはもう作らない(´Д` )